後輩(k.Y)に影響されて、私も『季刊せいてん』の年間購読を申し込んでみました。
浄土真宗本願寺派のシンクタンク(頭脳)である総合研究所が発行している冊子です。
NO.110 は「仏教説話と比喩に学ぶ②」の特集です。
ビックコミックスに『月をさすゆび』という漫画が連載されていますが、その元ネタでしょう。
<あらまし>お釈迦様は入滅される際、弟子たちに、教えの内容を依りどころとし、言葉に依ってはならないと仰いました。
教えの内容を依りどころとし、言葉に依らないのは、言葉は教えの内容を表しているのであって、言葉がそのまま教えの内容ではないからです。
それをわからずに、言葉だけに依って、教えの内容に依らないのは、人が月を指して教えようとするときに、指ばかりを見て月を見ないようなものなのです。
教えの内容に依らず、言葉に依るとはこれと同じことです。
言葉(指)そのものが教えの内容(月)ではないのですから、言葉に依ってはならないのです。
<解説>
「指月のたとえ」は、お釈迦様が何を拠りどころとし、何を拠りどころとしてはいけないかを四種類に分けて説かれた中の一つ、「教えの内容を拠りどころとして、言葉に依らない(依義不依語)」ことを示す中で用いられているたとえでうす。
言葉尻を捉える、揚げ足を取る、口は災いの元などとも言うように、日常の生活の中では、ちょっとした「言葉」の使い方や、「言葉」の受け取り方次第で、すれ違いが生じてしまうことは珍しくありません。
また、「思い」を言葉にできずもどかしさを感じたり、その逆に、たった一言の中に計り知れない「思い」を感じることができた、といった経験をお持ちの方もいらっしゃるでしょう。
「言葉」にできない、少しの「言葉」でもいい。
普段何気なく使っている「言葉」ですが、実は難しく、不思議なものです。
そのため仏教でも「言葉」は重要な問題とそれてきました。
そうした中、この「指月のたとえ」は、「言葉」だけを頼るのではなく、「言葉」(指)が指し示している内容(月)をこそ知らなければならないのだと教えているのです。
この記事をみて、仏教センサーがビンビンになっていたからでしょうか。
イギリスの少年たちが地面に寝転んでいるのです。遊んでいるわけではないそうです。
そこで、子どもたちが犯人の逃げた方向を指し示したのでした。大切なのは、子どもたちが作った矢印ではありません。
矢印が指し示すものです。
ふと、浄土真宗にもこの「指月の喩え」は当てはまるのだろうかと疑問が湧きました。浄土真宗の根本聖典である『仏説無量寿経』には、「法蔵菩薩という修行者が四十八の願いを起こして仏になられ、今「南無阿弥陀仏」の名前の仏として活動している」と説かれています。
この物語のような話にとらわれず、この物語が指し示す真実を見極めなければならいのか。
そうではなく、真実がそのままあらわれたのが「法蔵菩薩から弥陀へ」という話ではないのか。つまり「指」と「月」は別々のものではない、「指」がそのまま「月」であるというのが浄土真宗ではないのか。
今度、機会がありましたら教学面で活躍される先生に聞いてみたいと思います。