この度は、『仏典をよむ3 大乗の教え(上)-般若心経・法華教ほか-』中村元・前田専学監修より「長者窮子の譬喩」について紹介します。

親鸞聖人の主著である『教行信証』には様々な経典から引用がなされていますが、不思議と『法華経』からの引用はありません。

20年もの間、比叡山において学問修業された方ですから、当然『法華経』についても精通されていたでしょう。

この事に対して「親鸞聖人は『法華経』という最高のお経を意識して『無量寿経』を立てるため、あえて『法華経』からの引用はしなかったのでは」というような趣旨の話を聞いたことがありました。

私も『法華経』に目を通したことがないので、どういった内容か『仏典をよむ3 大乗の教え(上)-般若心経・法華教ほか-』中村元・前田専学監修より抜粋いたします。

『法華経』は総じて、仏の偉大な慈悲を強調しています。立派な修行を行っている人々はもちろん、どんな愚かなものであろうとも、一切の衆生を救おうとする。そのため、どのような衆生でも真の道理を理解できるように、という趣旨で、各品(各章)ごとに、いろいろの教えが述べられます。どの教えについて申しても、究極の境地まで導いてくださる、そこには広大なお慈悲があるというわけです。

それでは、「長者窮子の譬喩」を紹介します。

なお、二段下げの部分は経典の訓読です。

少し表現が難しいのですが、引用直後に引用文の説明があるのでそちらをご覧ください。

<-引用ここから->
お金持ちの長者があるところにおられた。

ところが、子どもがそこから離れていった。

そしてその子は、貧窮に苦しみ、心が沈んで、心が萎縮してしまっている。

その子どもをふと見出した長者は、長い年月をかけてだんだんとわが子の身分を高め、その子にふさわしい対応のしかたをつぎつぎと示して、しだいに心を開かせる。

最後には、自分の全財産また地位を継がせるという話です。

これは、仏さまの慈悲というものはそのようなものである、という譬えなのですね。

つまり、われわれは愚かであるけれども、やがてはだんだんと高い境地へ導いていってくださる、という仏の深い慈悲の心、その道理が「長者の困窮した子ども」という譬え話で述べられているのです。

では、「信解品第四」をみていきましょう。

譬えば人あって、年すでに幼稚にして父を捨てて逃逝(ちょうぜい)し、久しく他国に住して、あるいは十・二十より五十歳に至る。

年すでに長大してますますまた窮困(ぐうこん)し、四方に馳騁(ちちょう)して以て衣食を求め、漸漸(ぜんぜん)に遊行して本国に遇い向かぬ。

ある男の子がいて、幼いときに父のもとから逃げだし、長いこと他の国に住んで、十歳二十歳から五十歳にいたった。

もうすっかり年は長じたが、ますます生活に困ってしまい、あちこちに流れ者として雇われて働き、それによって辛うじて衣食の糧を求めていた。

そして、だんだんとへめぐっていて、たまたま、自分の生まれたもとの国のほうへ向かって行った。

つまり、この子は家出したのですね。

「馳騁」はいたる所で働くこと、「遊行」の「遊」はおもむくということで、「遊行」とは「へめぐる」という意味です。

「遇い向かいぬ」は、こういう読み方もありますが、「遇」という字は「たまたま」とも読みます。

いずれにせよ、ちょうど自分の生まれた国のほうへ向かったわけです。

その父先よりこのかた、子を求むるに得ずして一城(いちじょう)に中止す。

その家大いに富んで財宝無量なり。

(中略)

時に貧窮の子、諸の聚落に遊び国邑に経歴して、遂にその父の所止の城に到りぬ。

父つねに子を念う。

子と離別して五十余年(中略)みずから念(おも)わく、

「老朽(ろうく)して多く財物あり。金・銀・珍宝、倉庫に盈溢すれども、子息あることなし。一旦に終没しなば、財物散失して委付する所なけん」。

ここを以て慇懃につねにその子を憶う。

ところで、一方、そのお父さんは、前々から子どもを探していました。

子どもはいったい、どこへ行ったのだろう?

それで一つの城にとどまり、住んでいたのです。

「中止」というのは「とどまる」という意味です。

その家はたいへん豊かで富んでおり、財宝が無量でした。

ところで、その貧しく困窮した子どもはあちこちの聚落へ行き、国々をへめぐって、そしてついて、その父のいるところの城にいきました。

父はいつも、子どものことが忘れられなく思っていたのですね。

「ああ、自分はあの子と別れてから五十余年になる」と。

そして、お父さんの嘆きです。

「ああ、自分はもう老い朽ちて、老いぼれた。財産がたくさんあって、金・銀・珍しい宝、こいうのが倉庫に満ちているのに、子どもがいない。いったん自分が亡くなって消えてしまえば、財産は散逸してしまう、もうだれにやるということができない」。

インドでは跡継ぎの子どもがいないと、その父親の財産は国王に没収されてしまうのです。

だからぜひ、子がいなければいけない。

子を求めるという気持ちが古代インドでは強かったのです。

そこで子どものことばかり思っていた、というのです。

ちなみに、お城に住んでいたというのですが、インドのお金持ちというのはものすごいのですよ。

今日でも、大きな塀に囲まれたお城のようなところに住んでいるお金持ちがおります。

わたしもそういう人を知っています。

たとえば、ボンベイの丘の上に住んでいるある大金持ちは、周りを高い塀で囲んでいて、なかに150人の人がいる。

召使の人々もまた、みんなそのなかに住み込んでいるのです。

自動車だけでも十八台あり、このごろは二五台に増えたという。

それがみんなそのお城のなかにある。

150人も住んでいますから、お屋敷のなかでときどき、人がものを売りにきて市が立ったりします。

インドには、そういうお金持ちがいまでもおりますから、お城のような大邸宅に住んでいたという、こういう表現は十分理解できるのです。

(中略)

その時に窮子(ぐうじ)、傭賃展転して父の舎に遇い到りぬ。

門の側に住立してはるかにその父を見れば、師子の牀に踞して宝几足を承け、(中略)かくの如き等の種種の厳飾あって威徳特尊なり。

窮子父の大力勢あるを見て、すなわち恐怖を懐いて、ここに来至せることを悔ゆ。

ちょうどそのとき、困窮した子は、雇われて賃金労働者として流れ流れて、父の家にたまたまやってきた。

門のそばに立って、はるかにその父を見ると、父は立派な座席に腰掛けていて、そこには、宝で飾られたような足うけがある。

……このようなさまざまな飾りがあって、その威光はとくに優れている。

困窮した子は、父のたいへんな威勢があるのを見て恐れをなし、来たことを悔いた。

「師子の牀」とはインドでは「師子座」と申しますが、立派な座席のことです。

これは同時にベッドにもなる。

立派だから、それを百獣の王である獅子(師子)に譬えて、こう名づけるわけです。

また、「厳飾」の「厳」は、「いかめしい」という意味ではなくて「飾る」という意味です。

(中略)「もし久しくここに住せば、あるいは逼迫せられ強いて我をして作さしめん」。

この念を作し已って、疾く走って去りぬ。

時に富める長者師子の座において、子を見てすなわち識りぬ。

(中略)すなわち傍人を遣わして、急に追うて将いて還らしむ。

(中略)時に窮子みずから念わく、「罪なくして囚執えらる、これ必定して死せん」。

転たさらに惶怖し、悶絶して地に躃(たお)る。

父はるかにこれを見て使いに語って言わく、「(中略)冷水を以て面に灑(そそ)いで醒悟することを得せしめよ」。

(中略)使者これに語らく、「我今汝を放す、意の所趣に随え」。窮子歓喜して未曾有なることを得て、地より起きて貧里に往至して、以て衣食を求む。

その子は、ああ、自分はどうしてこんなところへきたのだろう、と後悔したのですね。

「もしもここに長くいたら、圧迫されて、そしてわたしにいろいろなことをさせるんじゃないか」、これを逃げたほうがいいと思って、走り去ってしまった。

ところが、師子座に腰掛けていたその豊かな長者は、「ああ、あそこにわが子がいた」と気づいて、傍らにいる人に命じてあとを追っかけさせた。

そして連れ戻したわけです。

そうすると、そのとき困窮した子は心に思ったのです。

「ああ、自分は罪もないのに捕らえられた。どうしたんだ、これはきっと殺されるんじゃないか」と。

ますます驚き慌て、恐れたあげく、ついに気絶して地面に倒れてしまったのですね。

父は遠くからこれを見ていて、使いに語って、いろいろ命令を授けた。「冷たい水を顔にかけて、目を覚まさせてあげなさい」と。

使者はその命令のとおりにして、その子に言った。

「わたしはいま、おまえさんを許してやる。だから、好きなとおりになさい」。

この困窮した子はたいへん喜び、これはいまだかつてないこと、すばらしいことだと思い、地面から起きて、また貧しい仲間のいるところへ行き、衣服や食物を求めた。

その時に長者、将にその子を誘引せんと欲して、方便を設けて、密かに二人の形色憔悴して威徳なき者を遣わす。汝彼を詣いてようやく窮子に語るべし、「ここに作処あり。倍(ま)して汝に値を与えん」。

(中略)

もし「何の所作をか欲す」と言わばすなわちこれに語るべし。

「汝を雇うことは糞(あくた)を除わしめんとなり」。

(中略)

その時に窮子まずその値を取って、尋(つ)いでともに糞を除う。

そのとき、そのお金持ちはその子を誘って自分のほうへ引きつけようとし、そこで方便として、ひそかに、二人の、見た目はやつれていてあまり偉そうでもないものを遣わした。

「おまえたちはあそこへ行って、あの困っている子に言いなさい。『仕事がある、ここで仕事をしてくれれば、おまえさんに賃金を与えよう』と。……もし、『どんなことをすればいいんですか』と訊かれたら、こう言いなさい。『おまえを雇うのは糞を除かせるためである』、と」。

つまり、いきなり立派なものをやると、びっくりしてしまうから、同じような風采の仲間のものをやれば話もしよいだろうというわけです。

また、「ここに作処あり」、働く場所がある、とありますが、インドでは当時、カーストによってなす仕事がちがいました。

召使の一人の人が何でもかんでもやるというのではないのです。

そしてその困窮した子は、まずその賃金をもらい、糞を除く仕事に従った。

その父、子を見て愍(あわ)れんでこれを怪しむ。

また他日を以て窓牖(まど)の中より、はるかに子の身を見れば、羸瘦憔悴(るいしゅしょうすい)し、糞土塵坌汗穢不浄なり。

すなわち瓔珞・細輭(さいなん)の上服・厳飾の具を脱いで、さらに麤弊垢膩(そへいくに)の衣を著(き)、塵土に身を坌(けが)し、右の手に除糞の器を執持して、畏るる所あるに状(かたど)れり。

諸の作人の語らく、「汝等勤作して懈息(けそく)することを得ること勿れ」と。

方便を以ての故にその子に近づくことを得つ。後にまた告げて言わく、(中略)「我汝が父の如し、また憂慮することなかれ。(中略)今より已後、所生の子の如くせん」。

(中略)

その時に窮子この遇を欣ぶといえども、なおみずから客作(かくさ)の賤し人と謂えり。これに由るが故に、二十年の中において常に糞を除わしむ。

父は子を見て、哀れな姿をしているので悲しく思い、いろいろ考えたわけですね。

痩せてやつれ、汚らわしいのですから。

それで、父はみずから、装飾に満ちた衣服を脱いで、垢まみれの衣をつけ、その子に近づこうとするわけです。

「瓔珞」とは宝石をつけたような垂れる首飾り、「細輭の上服」とは非常にデリケートで柔らかな立派な服、「厳飾の具」とは飾る装飾の品々のことです。

父はは「麤弊垢膩の衣」、つまり汚らわしい衣を着て身を汚くし、そして、糞を除くための道具を持って、掃除人夫に似たような姿をした。

そして、召使いたちに、「さあ、おまえたちもいっしょに働け」と言い、その子に近づくことができました。

そして父は、子に向かって、「自分はおまえの父のようなものだ、だから心配するな」「これから後は、自分のところで生まれた子どものようにしよう」と言ったわけです。

困窮した子どものほうでは、この待遇を喜んだのですが、けれどもまだ、外からきた卑しい労働者である、と自分では思っていました。

こういうようなわけで、長者は子どもに二十年のあいだ、糞の掃除をさせたのです。

これを過ぎて已後、心相体信して入出に難りなし。

しかもその所止はなお本処に在り。世尊、その時に長者疾(やまい)有って、みずから将に死せんこと久しからじと知って、窮子に語って言わく、「我今多く金・銀・珍宝有って倉庫に盈溢せり。

その中の多少、取与すべき所、汝ことごとくこれを知れ」。

(中略)

また少時を経て、父、子の意漸(ようや)く已に通泰して、大志を成就し、みずから先の心を鄙(いやし)んずと知って、終わらと欲する時に臨んで、その子に命じ、ならびに親族・国王・大臣・刹利・居士を会(あつ)むるに皆ことごとく已に集まりぬ。

すなわちみずから宣言すらく、「諸君まさに知るべし、これはこれ我が子なり、(中略)今吾が所有の一切の財物は皆これ子の有なり」。

(中略)

この時に窮子、父のこの言を聞いてすなわち大いに歓喜して、未曾有なることを得て、この念を作さく、「我本心に悕具する所あることなかりき。今この宝蔵、自然にして至りぬといわんが如し」。(以下略)

それからだんだん、心を許して、お互いに信用するようになって、それで入ったり出たりするのに憚ることもなくなった。

そのうちに、長者は病にかかり、自分の死が近いことを知りました。

それで長者は、困窮した子どもに語っています。

「いま自分には、たくさんの金銀や珍しい宝があり、倉庫に満ち満ちている。そのなかのどれだけでも、もうほしいだけ、とりなさい」。

それからまた、しばらくたってから、父は子どもの心がようやく通じてきたことを知り、もうまもなく命が終わるだろうというとき、その子に命じて、親族・国王・大臣・刹利・居士を集めさせました。

「刹利」はクシャトリアの音を写したもので王族のこと、「居士」は資産家のことです。みんなを集めたところで、そこで父は宣言します。

「さあ、皆さん、いいですか、よく心得てください。ここにいる子は実はわたしの子なのです。……自分が持っている一切の財産はみなこの子のものになるのです」。

このとき、困窮した子は父のことばを聞き、たいへん喜びます。「ああ、これはすばらしいことだ」と思ったが、そこで思いました。「わたしは何もこういうものを求めたり、願ったりすることはなかった。ところが、この宝の蔵がひとりでに自分のものになった」。

そこですべてわかったというのです。

最後のところで、「自然にして」となっていますが、これはおそらく、翻訳者の鳩摩羅什、あるいはその仲間の人たちが中国の思想にもとづいて、こういう表現をしたのだと思います。

サンスクリットの原文は「たちまちに」ということばになっており、たしかに「たちまちに」というのがそのときの実状をあらわしていると思います。

しかし、中国の思想としては、昔から「自然」ということを尊びます。

だから、「自分は何もわざわざもらおうなんて、そんなあくせくはしなかったけれども、ひとりでに得られたのだ」と感じたほうが、仏さまのお慈悲のありがたさをよけいに印象づけることになるかと思うのです。

なお、この長者の臨終の場面は、当時のインド社会を考えるうえでたいへん興味深いので、少しふれておきましょう。

ここでこの長者は、国王・王族・大臣まで、自分のところへ呼びつけているわけですね。

これはたいへんなことで、インドの他の文芸作品や宗教聖典には出てこない姿です。

これはつまり、『法華経』がつくられたこのころ、インドでは貨幣経済が非常に進展していたことを示しているのです。

実際、この時代につくられた金貨が歴代のインドの貨幣のなかでもいちばん純粋で立派でした。

西のローマ、アラビアとの貿易がさかんになって、ローマの金がどんどんインドへ流れてきており、ローマの元老たちが「ああ、おまえたちローマ人よ、こんな贅沢をするものだから、ローマの大切な金が毎年、インドへどんどん流れていく。

これは警戒しなければいけない」といって戒めたことが、ラテン語の文献に残っております。

ローマの金がインドへ流れたのに対応して、北インドのクシャーナ王朝はすばらしい金貨をつくりました。

南インドでは、自分たちで金貨をつくらないでローマの金貨をそのまま交換手段に使ったようで、そこに若干ちがいがありますが、同じように交易が非常にさかんでして、商業資本の力というものが非常に強くなった。

そのために国王といえども一目おかなければならなくなった。

そういう社会情勢が、この物語のなかに反映しているのです。

以上が「信解品」の有名な譬えばなしです。

<-引用ここまで->

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