今日は『神さまがくれた漢字たち』監修:白川修・著者:山本史也の中より、「死」と「葬」の成り立ちについて説明されているところを紹介します。

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人は免れようもなく、この運命的な孤独にゆだねなければならぬときを迎えます。

それが「死」というものでしょう。

「死」それ自体は、形で示されることのないため、「死」の事実を実態として文字に表すことができません。

それで、「死」の字は、死者の姿ではなく、代わって、生きている者の死者への対応のありかたを示す字となります。

「死」の左部に記されるのは、「歹(がつへん)、残骨を象ります。その右部には、膝をつき、死者を弔う形が配されます。

それを草原のなかで行うのが「葬」です。

なお、身体をとどめる死者の形を写す字は「亡」であり、また「久」です。

「亡」は足を曲げた死者、「久」はうしろより木で支えられている死者をそれぞれ象る字です。

この「久」を棺に入れ、野辺に送ることを示す字が「柩(きゅう)」、すなわち「ひつぎ」にほかなりません。

この葬礼のうち、おそらく死体は、その野で徐々に腐朽し、そして風化され、やがて骨のみをとどめるものとなります。

「死」の字は、そのかろうじて残された骨にたいしてひざまずく人の姿を表した字です。

そのことからも、一どめは肉体的な生命を失ったばかりの死者にたいして、二どめはそれよりかなりの月日を経て、風化されたのちの死者にたいして、あわせて二どの葬礼が行われたであろうことが推測されるのです。

これを複葬と称しますが、「死」「葬」の字がいずれも、その二どめの葬礼を示すことは明らかです。

語弊をおそれずにいえば、その一次の「死」にさいして、古代中国の人々がどのような態度で臨んだのかを考えるとき、私たちはさまざまな文献に記された「死」の情景に着目するよりは、むしろ漢字の初めの形に目を凝らすことのほうが、より明確に、その初めの姿を求めうる手段となるのではないかと思われます。

漢字はその行為、その動作を、あたかも現実に即した映像として、私たちのために、あざやかに開示するものであるからです(以上)。

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