先日、紹介いたしました『三省堂国語辞典のひみつ』の中で、筆者は「感動させて頂く」という表現に違和感を覚えると述べています。
元は「休業いたします」ですんでいたのが、そのうち、なんだか敬意が足りないように感じられてきます。
それで新しい言い方として選ばれたのが「休業させていただきます」だったのです。
「させていただく」の使い方で、私から見てもおかしいと思うものもあります。それは、自分の気持ちを表す使い方です。
〔両足義足のランナーのゴールインを見て、女性タレントが〕手で涙を拭いながら/「感動させていただきました」/と、声を詰まらせた-。(『週刊新潮』2008年5月1・8日号108ページ)
感動とは、ひとりでに起こるもので、誰かに許可を求めた結果のように言うのは、さすがに違和感があります。
といって、このタレントさんを批判するつもりもないのです。
「感動いたしました」をより丁寧に言おうとしているのだろうな、と思うばかりです。
ですから、ちまたに溢れる俗語であっても日本語の世界の住人として馴染んだならば、本来の言葉遣いとともに実際にどのような意味で用いられているかということについて辞典の中で触れられています。
筆者はこの辞典の編纂者であり、言葉について柔軟な姿勢を持っています。
しかし、この「感動させていただく」という表現には違和感を覚えるようで、その理由として
と、説明されています。
浄土真宗のご法話ではよく「~させていただく」という言葉遣いを多用するのですが、そうした慣習に長いこと浸かっていたがためか、この「感動とは、ひとりでに起こるもの」という説明に逆に違和感を覚えます。
ちなみにパソコンの日本語入力システム「ATOK」には、文字の変換の時に『三省堂国語辞典』に掲載される意味内容が表示されるのですが(この機能がもの凄く便利)、そこには「感動」について以下のような説明がなされています。
ものごとに感じて、心を強く動かされること。感じ入ること。
「深く━する」「━的〔=感動させる〕場面」
→ かんどうし【感動詞】
三省堂国語辞典 第七版 (C) Sanseido Co.,Ltd. 2014
この説明を見ると、「感動とは、ひとりでに起こるもの」というより、「何かによって心を動かされる」という受け身の表現の様にも見えます。
また、英語ではどの様に表現するのか調べてみると、このようにありました。