仏教の業界用語の一つとして「行(ぎょう)」という言葉があります。

業界用語ではありますが「修行」という言葉が世間でもつかわれるように一般の方にも浸透している言葉です。

何度かこのブログでも取り上げましたが、行とは仏教において悟りを得るための実践のことを指します。

専門的な言葉を用いると「造作」「進趣」の2つが揃ってはじめて「行」というのです。

「造作」は動きを示し、「進趣」は「目的に向かってにすすむはたらき」のことです。

先日、こんな出来事がありました。

3歳の娘が食事をしている最中、テレビに目を奪われ、食べ物を口に運ぶ手の動きが止まってしまいます。

それを見た母親が「手を動かしなさい」と促すと、娘は母親の言う通り手をブンブン振り回し手を動かしながら「手が動いたよ」とアピールします。

確かに手は動いているのですが、その動きは口まで食べ物を運ぶという目的に適っておりません。

仏教的に言うならば造作はあるが、進趣していない状態です。

浄土真宗では「修行」をしないといいますが、それは自らの欲望にまかせて生活して良いということではありません。

たとえ、清く正しく生きているような生活であっても、その実践は仏に向うはたらきを有していないので行と言わないのです。

しかし、ややこし話なのですが、浄土真宗においても行は存在します。

それは私たちの行なのですが、私たちが修めた行ではありません。

阿弥陀如来という仏さまがこの私たちをお浄土へ生まれさせ仏と仕立てあげるために完成してくださった「南無弥陀仏」が浄土真宗における行です。

この「南無阿弥陀仏」を称えることを行と言うのではなく、称えられる「南無阿弥陀仏」そのものが私たちの行なのです。

浄土真宗及び仏教について、他の方もいろいろ記事を書いてくださっています。
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