以前、宮沢賢治の「雨ニモマケズ」をアレンジした福間義朝先生の「雨ニハ傘ヲ」をこのブログで紹介させていただきましたが、宮沢賢治の「雨ニモマケズ」の背景が気になったので何冊か宮沢賢治に関連する本を読んでみましたので、書き留めておきます。

参考にした本は以下の三つです。

『100分de名著 宮沢賢治スペシャル』日本大学芸術学部教授・山下聖美 著
『 雨ニモマケズ 宮沢賢治の世界』小松正衛 著
『宮沢賢治と法華経 日蓮と親鸞の狭間で』松岡幹夫 著

宮沢賢治の出自と環境

日本が日清戦争に勝ち湧き立った 明治29(1896)年8月27日、現在の岩手県花巻市に宮沢賢治は生まれました。

父の宮沢政次郎と母の宮沢イチは同じ宮沢一族の遠い親戚にあたります。

父方は呉服系の商売をしており、母方は祖父の代に雑貨商を発展させて巨万の富を築き、宮沢一族では地元の名家でした。

父・政次郎も質屋兼古着屋を営んでおり、宮沢賢治は親の庇護のもと生涯に渡ってお金の心配をすることがありませんでした。

宮沢家は二百年来続く真宗門徒であり、父・政次郎は清沢満之門下の秀才・暁烏敏とも交友があり、地元では花卷仏教会をつくり中央から講師を招いて講習会を催すなど、この地方の仏教の中心的な働きをしていました。

また、父・政次郎の姉である伯母のヤギが賢治のお守りをしており、この人も浄土真宗のみ教えを大切にする方であったので、賢治が3歳の頃には親鸞聖人が御製作くださった「正信念仏偈」や蓮如上人のお手紙である「白骨の御文章」を暗誦するほどであったといいます。

P15  賢治が生まれた宮沢一族は「宮沢まき」(まき=一族、系統)とヨバレ、地元ではよく知られた名家でした。一族の始祖は十七世紀の終わりに京都からやってきて、その子孫たちは、呉服商や名匠と呼ばれた大工などとして活躍し、堅実に地位を築いていきました。賢治の父・政次郎と、母・イチはともに宮沢家の出身で、遠い親戚という間柄です。父方の宮沢家は呉服商の系統で、賢治の祖父は分家をして質屋兼古着屋を開店。これが後に賢治が育つ家です。一方、母方の宮沢家は賢治の祖父の代に雑貨商を発展させて巨万の富を築き、地元の銀行や花卷温泉、岩手軽鉄道などの設立にも関わった財閥一族であったといいます。賢治はしかし、このような恵まれた環境について葛藤を抱いていました。東北・岩手と言えば、当時は冷害が頻繁に起こり、農民たちの苦労や貧しさは相当なものであったといいます。賢治の家は、そんな貧しさに苦しむ農民たちに古着を売ったり、お金を貸したりすることで成り立っていました。賢治はその事実に反発し、それが後に、自らが育った家との対立へとつながっていきました。とはいえ、賢治が自由にものを書き続けられたのは、結局は宮沢家という大きな家のおかげでした。東京に家出したときも頼ったのは父親の知り合いですし、「本当の百姓」になるという決意で教職を辞して設立した羅須地人協会の拠点も、詰まるところ実家の別荘でした。要するにものすごくお坊ちゃまなのです。宮沢賢治という特異な作家は、生涯にわたって金銭の心配をすることなく、生活に縛られることもなく、大きな大きな家の庇護のもとで育っていったのです。

『100分de名著 宮沢賢治スペシャル』日本大学芸術学部教授・山下聖美 著

P23 宮沢賢治は、明治二十九年(一八九六)八月二十七日、岩手県稗貫郡花巻町大字里川口第十二地割字川口町二九五番地(現・花巻市豊沢町四丁目十一番地)に、父・政次郎、母イチの長男として誕生した。その前年、明治二十八年は、日本が日清戦争に勝って湧き立っていた年である。(中略)賢治の祖父は喜助と言い、分家して豊沢町で古着を商い、また質屋も兼業していた。父の政次郎もその後を継いで古着屋と質屋を営んでいた。

『 雨ニモマケズ 宮沢賢治の世界』小松正衛 著

P26 この政次郎は誠実な性格の人で、宗教心篤く、仏教に深く帰依して、花巻仏教会をつくり、中央から講師を招いて講習会を催したり、この地方の仏教の中心的な働きをしていた。宮沢家の菩提寺は家の裏手にあたる安浄寺で浄土真宗である。おして、母イチは明るく優しい人で、ユーモアに富んだ性格だったらしい。賢治が三歳の頃、伯母のヤギ(父政次郎の姉で離婚して実家に戻っていた)が賢治のおもりをしていて、この人も信心深い人だったので、幼い賢治に、「正信偈」や「白骨の御文章」を子守歌のようにして聞かせていたこともあって、この伯母と仏壇の前に正座してこれを暗誦した、と言う。賢治の信仰心はこのような家庭の雰囲気の中で育まれていったものであろう。

『雨ニモマケズ 宮沢賢治の世界』小松正衛 著

P26 この政次郎は誠実な性格の人で、宗教心篤く、仏教に深く帰依して、花巻仏教会をつくり、中央から講師を招いて講習会を催したり、この地方の仏教の中心的な働きをしていた。宮沢家の菩提寺は家の裏手にあたる安浄寺で浄土真宗である。おして、母イチは明るく優しい人で、ユーモアに富んだ性格だったらしい。賢治が三歳の頃、伯母のヤギ(父政次郎の姉で離婚して実家に戻っていた)が賢治のおもりをしていて、この人も信心深い人だったので、幼い賢治に、「正信偈」や「白骨の御文章」を子守歌のようにして聞かせていたこともあって、この伯母と仏壇の前に正座してこれを暗誦した、と言う。賢治の信仰心はこのような家庭の雰囲気の中で育まれていったものであろう。

『雨ニモマケズ 宮沢賢治の世界』小松正衛 著

P187 二百年来続いた真宗門徒の家庭に生まれ育った賢治は、伯母の手ほどきで四、五歳の頃から「正信偈」や「白骨の御文章」を暗誦していたという。

『宮沢賢治と法華経 日蓮と親鸞の狭間で』松岡幹夫 著

P188 賢治の弟・宮沢清六は、父・政次郎と交友関係にあった清沢満之門下の俊才・暁烏敏に幼少の賢治がなついていたことを回顧しつつ、こうした宗教的環境が「前からその傾向のあった賢治に人の世の無常を極めて自然に染み込ませた」とし、そのゆえに、「幼い頃から私の見た兄は、特に中学生のころと晩年のころは表面陽気に見えながらも、実は何とも言えないほど哀しいものを内に持っていたと思う」と述べて、幼少期の賢治は真宗的雰囲気に包まれて苦界の現実を悲嘆するようになったと証言している。

『宮沢賢治と法華経 日蓮と親鸞の狭間で』松岡幹夫 著

宮沢賢治と法華経

熱心な浄土真宗の家庭で育った賢治は16歳の頃に書簡で「 小生はすでに道を得候。歎異鈔の第一頁を以て小生の全信仰と致し候」と述べる程、浄土真宗の教えを血肉化しておりました。

しかし、それから2年後の18歳の時に賢治は島地大等の著書を通じて『法華経』に目覚めます(この島地大等は浄土真宗の学問僧を紹介する『学僧逸伝』にも名が見える浄土真宗の僧侶でありました)。

『100分de名著 宮沢賢治スペシャル』日本大学芸術学部教授・山下聖美 著の中では、「宗教に熱中した高校時代」という見出しで、賢治と『法華経』の関わりを少し紹介する程度でありましたが、他の宮沢賢治関連本によれば、『法華経』の思想は賢治が死ぬ時まで大いに影響を与えていました。

具体的に言うと、賢治は24歳の時に法華系の宗教である国柱会に入会。生涯、会員でありました。

また、賢治は臨終間際、喀血しながら「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経」と題目を唱えていたといいます。

賢治の最期を悟った父・政次郎が「何か言い残すことはないか」と尋ねると、賢治は「国訳の法華経を一千部印刷して、知人の方々に差し上げてください」と遺言をしています。

また、「雨ニモマケズ」の「デクノボー」は『法華経』の常不軽菩薩がモデルであることはほぼ、定説化していますし、賢治の代表作である『銀河鉄道の夜』(ただし、生前に完成した形として発表されたものではない)には諸々に『法華経』の思想を感じることできると松岡幹夫氏は『宮沢賢治と法華経 日蓮と親鸞の狭間で』の中で述べています。

P43 十六歳の少年の頃、「小生はすでに道を得候。歎異鈔の第一頁を以て小生の全信仰と致し候」と書簡に書くほど、浄土真宗の教えを血肉化していた賢治である。後に『法華経』に開眼し、熱心な法華信者になったとはいえ、幼少期からの真宗的精神が簡単に消え去るわけもない。

『宮沢賢治と法華経 日蓮と親鸞の狭間で』松岡幹夫 著

P227 本章での考察を総括する。幼少期の宮沢賢治は、家庭おける浄土真宗信仰を通じて真宗的な精神性を培ったが、父の政次郎が他力信のうえから現実悪を諦念することに対しては強く反発し、自ら自己犠牲的な救済者信仰を形成した。そして、十八歳の時、島地大等の著書を通じて『法華経』の本覚思想的な世界観に出会う。本覚思想の絶対的一元論は、現実悪を嘆きつつ諦観するのではなく、あらゆる現実を宗教的に絶対肯定するオプティミズムを賢治に教えた。当然、それは悪しき現実をも直接肯定する退落傾向を有していたが、賢治の中では自己犠牲的な救済者信仰が強固に根づいていたために、結果的に彼が到達したのは現代的意味でいう「共生」への志向であった。すなわち自己犠牲願望を持ち、〈一切有情=自己の父母兄弟〉という真宗の輪廻転生観の下で他者の苦しみに対する鋭敏な共感能力を養った彼は『法華経』の中でもとりわけ釈尊過去世の捨身行や「一切衆生皆成仏道」の教えに深い感銘を受け、万物共生の理想を目指す自己犠牲をもって生涯の倫理的信念と定めるに至ったのである。ここで賢治の共生主義は、『法華経』の大乗的成仏観、賢治自身の共感的資質、〈一切有情=自己の父母兄弟〉という真宗の輪廻転生観、という三つの要因から成立したことがわかる。

『宮沢賢治と法華経 日蓮と親鸞の狭間で』松岡幹夫 著

P67 大正九年、賢治二十四歳、花巻で国柱会信行部に入会し、生涯をその会員として過ごした。田中智学(一八六一=一九三九)は江戸日本橋に生まれ、幼にして親に死別し、葛飾郡日蓮宗妙等寺で得度した。大正十五年、下谷鶯谷に国柱会館を建設、日蓮の立正安国の教法を護持して檀家制度によらない在家仏教信仰の組織を創り布教した。著書も多く、知識階層に信徒多く、たかやま樗牛、田中光顕、石原莞爾などを感化し、賢治の法華経信仰生活の十数年間も、田中の主宰する国柱会を支柱とするものであった。

『 雨ニモマケズ 宮沢賢治の世界』小松正衛 著

P98 臨終(中略)九月二十日の夕方にはいよいよ覚悟を決めた様子で、父政次郎もこれをみて、わが子の大事な時が遠くないことを思い、二人は腹の底からいろんなことを話し合った。賢治は長い年月にわたって心骨を削って書いた原稿が戸棚や枕元に積んであるのを指して、「お父さん、これらの原稿はわたしの迷いの跡ですから、どうにでも適当にして下さい」と語った。(中略)十一時半頃、二階から澄んだすき通った賢治の声で「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経」というお題目が聞こえてきた。みんな驚いて二階に上がってみると、賢治は口から喀血し顔を蒼白にして、胸に両手を合わせて、静かに祈りをささげていた。最期の刻が近づいたと思った父は「何か言っておくことはないか」と聞くと、賢治は「ぜひお願いしたいことがあります。国訳の法華経を一千部刷って、それを知己の人々に差し上げて下さい」と言った。「承知した。その他に何かないか」と言うと、「いずれ後でまた起きて言います」と言う。(中略)そして、「お母さん、水」と言うので土瓶に一杯の水を渡すと、美味しそうにそれをあらかた飲んでしまい、「ああ、いい気持ちだった」と言いながら、やがてオキシフルを浸した消毒液で体中を自分で拭いて横になった。すると賢治の様子が急変し、ずうっと眠りに入っていくようで、呼吸も遠くになっていった。みなが枕元で、「賢さん、賢さん」と大声で呼んでも、もう返事はなかった。

『 雨ニモマケズ 宮沢賢治の世界』小松正衛 著

P97 宮沢賢治が「雨ニモマケズ」で「サウイフモノニ/ワタシハナリタイ」としていた「デクノボー」は、この常不軽菩薩をモデルにしていると言われています。

『100分de名著 法華経』植木雅俊

生前発表された賢治の作品

『銀河鉄道の夜』『風の又三郎』『注文の多い料理店』等、宮沢賢治にはいくつもの有名な作品がありますが、生前発刊したのは『注文の多い料理店』(童話)と『春と修羅』(詩集ではなく心象スケッチ)の2作でした。

ともに賢治が28歳の1924年のことです。

『注文の多い料理店』は定価1円60銭。

全く売れないのを恐縮した賢治が父のお金で百部を買いあげました。

また、『春と修羅』は定価2円50銭、初版一千部を印刷したが、これもほとんど売れませんでした。

昔の1円は現在での1,500円程度。2円は3,000円程度です。

現在、この『春と修羅』の古書価格は200万円に及ぶそうです。

P9 ※『注文の多い料理店』「序」と九篇の短編童話を収録。定価1円60銭、初版一千部、東京光原社発行。凝った造本のため経費がかさみ、印税代わりにもらったのは自著百部だった。さらに、まったく売れないのを恐縮した賢治が父の金で二百部を買い上げたという。

『100分de名著 宮沢賢治スペシャル』日本大学芸術学部教授・山下聖美 著

P38 『春と修羅』定価二円五十銭、初版一千部で自費出版したが、ほとんど売れなかったという。しかし、当時から詩人の中原中也や草野心平は絶賛していた。現在の古書価格は二百万円に及ぶ。初版本の裏表紙にあった「詩集」の文字を恥じて、賢治は「ブロンヅの粉で」その二文字を消したという。第二集・第三集の構想もあったが、賢治の死によって実現しなかった。

『100分de名著 宮沢賢治スペシャル』日本大学芸術学部教授・山下聖美 著

次は、『法華経』と「雨ニモマケズ」に登場する「デクノボー」のモデルとなった「常不軽菩薩」について見ていこうと思います。

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