6月から、制度が変更された「ふるさと納税」が始まりますが、対象市区町村からから大阪府の泉佐野市が除外されました。

納税して頂いた方に対して地産の物を返礼品としてお渡しするというのが、「ふるさと納税」の目的だったのですが、Amazonのギフト券が返礼品として還元されるなど、寄付金を集めるためになりふり構わない手法が問題であったとも指摘されています。

以前、泉佐野市の手法がワイドショーを賑わせた時に、テレビのリポーターが街行く人たちにインタビューをしていたのですが、人それぞれ根拠を示しつつ自分の意見を言うのですが、その根拠が違っているのです。

泉佐野市に賛成する方々は、「経済が活性化する」等の根拠を述べ、反対する方々は、「ふるさと納税」が導入された理念に反すると言います。

この光景を見て思いだしたのが、藤原正彦氏の『国家の品格』の一節です。

藤原正彦氏によると、論理には出発点が必要であり、その出発点は論理的帰結ではなく仮説であり、どの仮説を選ぶのかは各々の情緒によると言います。

この情緒について、藤原氏は次の様に述べます。

情緒とは、論理以前のその人の総合力と言えます。その人がどういう親に育てられたか、どのような先生や友達に出会って来たか、どのような小説や詩歌を読んで涙を流したか、どのような恋愛、失恋、片想いを経験してきたか。どのような悲しい別れに出会ってきたか。こういう諸々のことがすべてあわさって、その人の情緒力を形成し、論理の出発点Aを選ばせているわけです。

『国家の品格』藤原正彦著 P50

ですから、泉佐野市の『ふるさと納税』の手法についても、人によっては経済を優先させる人もいらっしゃいますし、この制度が成り立った理念を大切にする方もいらっしゃいますが、これはその人の情緒、つまり論理の出発点が違うのでしょう。

『国家の品格』には、お互い論理は通っているけれども、論理の出発点が違うから意見が対立するということについて、以下の様に例を紹介してくださっております。

パン泥棒にどう向き合うか

わかりやすい例を一つあげてみましょう。ここに一週間何も食べてない男がいるとします。この男が街に出て角のパン屋さんの前に来た時、思わずパンを奪って食べて逃げてしまった。

ある人はこの光景を目撃してこう思う。「日本は法治国家である。法治国家においては、法律を遵守しなければいけない。他人の物を黙って盗るということは、窃盗罪に値する。したがって法律に則り処罰されなければいけない。そのために警察に突き出そう」。

勇敢な彼、ないし彼女は逃げていく男を追いかけて捕まえたり、あるいは110番を回して警察に連絡したりする。

ところが別の人は同じ光景を見てこう思う。

「ああ、可哀想。確かにこの男は人の物を盗んだ。しかしこの男は、今このパンを食べないと死んでしまったかも知れない。人間の命は一片の法律よりも重い場合もある。だから今は見て見ぬフリをして通り過ぎよう」。

どちらも論理は通っています。最初の人は「日本は法治国家である」が出発点で、結論は「警察に突き出す」。もう一人の人は出発点は「ああ、可哀想」で、結論は「見て見ぬフリをして通り過ぎる」。

両方とも論理はきちんと通っているのですが、出発点Aが異なってしまったということです。すなわち、論理は重要であるけれども、出発点を選ぶということはそれ以上に決定的なのです。

『国家の品格』藤原正彦著 P52

この本の中で、江戸時代、会津藩にあった日新館という藩校の 「什の掟」というものが紹介されています。

論理の出発点とも言える掟です。

一つ、年長者の言うことに背いてはなりませぬ

二つ、年長者にはお辞儀をしなければなりませぬ

三つ、虚言を言うことはなりませぬ

四つ、卑怯な振る舞いをしてはなりませぬ

五つ、弱いものをいじめてはなりませぬ

六つ、戸外で物を食べてはなりませぬ

七つ、戸外で婦人と言葉を交えてはなりませぬ

この掟の最後はこの様に結ばれています。

ならぬことはならぬものです

『国家の品格』藤原正彦著 P47
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