前回に引き続き、第3章(弟子品第三)です。出家主義である上座部仏教を批判する精神をもって編纂された『維摩経』では、釈尊の高弟方が悉く在家信者である維摩に論破されていきます。『梵漢和対照・現代語訳 維摩経』植木雅俊 訳の解説に掲載されている第3章(弟子品第三)の要約をはじめに掲載しておきます。

釈尊は、そのヴィマラキールティが病気になったことを知り、見舞いに行くことを命じる。ところが、智慧第一のシャーリプトラ(舎利弗)をはじめとする十大弟子や、マイトレーヤ(弥勒)をはじめとする菩薩たちは、ことごとくヴィマラキールティに屈服させられた苦い経験を語り、病気見舞いを辞退する(第3章)

維摩に論破される釈迦の十大弟子( 須菩提)

須菩提とはどの様な人物か

須菩提とも関係が深い祇園精舎

浄土真宗では法事の際に『阿弥陀経』を勤める事が多いかと思いますが、『阿弥陀経』の舞台は舎衛国にある祇園精舎です。この祇園精舎が仏教教団に寄進されるにあたりこの様な物語が伝えられております。

須菩提の叔父にあたる須達長者はマガダ国への商用の旅の途中、釈尊にまみえることがありました。そこで、どうかコーサラ国にも来て下さらないかと懇願し、釈尊は約束されました。

ここから、釈尊を含む修行者方に滞在して頂く場所を探し求めます。修行を続けるのに最適な、閑静な場所であることは当然として、あまりにも人里離れた場所だと托鉢をするのに時間がかかってしまい、修行の時間が減ってしまいます。

須達長者はコーサラ国の舎衛城の周辺を探し周りましたが、そこで最適な場所であると見つけたのが、祇陀太子の所有する林園であったのです。須達長者は土地を譲ってくださらないかとお願いしますが「たとえ土地に黄金を敷きつめたところで譲る気はない」と祇陀太子の気持ちは変わりません。

そこで、須達長者は大臣に相談します。仲裁を依頼された大臣は、まさか本気で実行するとも思わず「昔から、いちどものの値段を口にしたものは、その価で売らねばならぬーとされている。スダッタ長者(西原註:須達)よ、土地に黄金を敷きつめて買ったらどうかね」と提言します。

すると、須達長者は大臣の言われた通りに実行します。翌日から黄金を祇陀太子の林園に運んだのです。半分まで黄金を敷きつめた所で、その熱意に祇陀太子は動かされました。残りの半分の土地は、この私(祇陀太子)が寄進させて頂こうと願い出たのです。

こうして、祇陀太子の林園に精舎が建立されました。人々はそれを「祇陀園精舎」と呼びます、略して「祇園精舎」です。また祇陀太子の土地を半分買い取った須達長者は貧しい人々に食を給したので、給孤独とも称され、ここから「祇樹給孤独園」とも言われています。この物語の主人公である須達長者の甥(須達長者の弟の子)にあたるのが、須菩提です。

解空第一

須菩提は「解空第一」と言われています。このため、般若経典においてもブッダの中心的対告衆として登場します(『岩波仏教辞典』)。実際に大正新脩大蔵経のデータベースで検索を掛けて見たら、8977件も引っ掛かりました。

大正新脩大蔵経データベース

「空」の説明については、『岩波仏教辞典』の説明に譲ります。

【竜樹-空=無自性縁起説】初期の般若経で説かれた〈空〉を理論的に大成したのが竜樹(ナーガールジュナ)である。(中略)〈空〉の意味内容を論じ、〈空〉は無に等しいのではなく、すべての事物が無自性にして縁起することを意味すると説いた。竜樹のこの主張には、世界を構成する精神的・物質的な要素として〈法〉に自性を認め、諸法は常に存在する(三世実有)とした説一切有部流の〈法〉解釈に対する強い批判が込められる(『岩波仏教辞典』第二版「空」238頁)

また、解空第一と関連して、須菩提にはこの様な話が伝わっています。『釈尊と十大弟子』ひろさちや著に書かれているものをそのまま引用します。

玄奘三蔵のインド・西域の旅行記である『大唐西域記』巻第四の最後のところに、こんな話が書かれている。それは、釈尊が三十三天(小刀利天 ※西原註「小」「刀」は一字としてお読みください)に三カ月間滞在されたのち、釈尊は三道の宝階を地上に降りて来られる。人々は釈尊をわれ先にお迎えしようとするが、そのとき須菩提はじっと坐ったままでいた。

「〔彼は〕かつて仏の教えを聞き、諸法は空である(諸現象は実体がない)ことを理解し、諸法の性(実相)を体得していたので、そこで知恵の眼で仏の法身(真の身姿)を観察した」(水谷真成訳による)

このとき、実際に釈尊を真っ先に迎えたのは蓮華色比丘尼であったらしい。しかし釈尊は、彼女に向かってこう言われたという。

「わたしを最初に迎えてくれたのは、そなたではなく須菩提なのだよ。彼は空を観じて、わたしの法身を最初に見たのだ」と。

つまり、われわれはどうしても釈尊の肉体的な姿にとらわれているのである。それだけが釈尊その人だと思い込み、そんな思い込みに執着している。そうした執着を離れた自由の境地が「空」であり、それを須菩提は理解できていたのであった。だから、彼は「空」の立場に立って、真の釈尊に拝謁できたわけである。それが、須菩提が「解空第一」と呼ばれていることの所以なのである(『釈迦の十大弟子』ひろさちや著・147-148頁)

『釈迦と十大弟子』西村公朝著

須菩提、維摩に論破される

摩訶迦葉の次に釈尊の指名を受けたのが「解空第一」と言われる須菩提でした。しかし、須菩提もまた自分にはお見舞いに行く資格がないと辞退されます。須菩提もまた維摩に論破された苦い思い出があったからです。

ある時、須菩提が維摩の邸宅に乞食に参ると、維摩は須菩提の鉢を食べ物で充たして、こう言います。

須菩提よ、貴方は六師外道を師として、ついていく覚悟があるのならばこの施食を受けとるがよい。須菩提よ、諸々の仏を非難し、法を誹り、仏教教団から離れ、終に悟りを得ることがないと言うのならばこの施食を受けとるがよい。

維摩の指摘を受けて、須菩提は唖然とします。維摩に何て答えたら良いのか分からない須菩提は、乞食に使う鉢を置いて維摩の邸宅を後にしようとしますが、維摩は須菩提に言います。

須菩提よ、この鉢を受けとるが良い。今、貴方は私(維摩)の言った事の意味が分からず逃げだそうとしているが、今の言葉が如来が遣わした幻の人間によって語られた言葉であったとしたら恐れることがあろうか。須菩提よ、全ての事象は夢・幻の様であって、恐れることはない。

維摩の言葉に須菩提は返答することが出来ません。この様な理由で自分には維摩のお見舞いに行く資格がないと、須菩提はお見舞いを辞退されるのでありました。

真宗僧侶「教清」という人物

執われを離れ悠々自適な生活を送った人物として、大体 禅僧の方が紹介されることが多いのですが、『真宗本派 学僧逸伝』井上哲雄著を見ていて、真宗僧侶に似つかわしくない暮らしぶりの方がいらっしゃったので、この度ご紹介いたします。カッコ()内の註は私が記しました。以下、 『真宗本派 学僧逸伝』井上哲雄著(69-70頁)の内容です。


教清|きょうせい(1634-1692 頃)讃岐白鳥郡某寺

一名永徳、唱導(註:法話)を善くし、頗る典籍に通ず。寛文元年(註:1661年)法友と共に四国の霊場を巡拝したが、途中誤って大河に溺れた。然し敢て救いを呼ばず、流れにまかせて洲渚(註:川の陸地)に着いて漸く助かった。

道中で金を失っても捜そうとはしない。辛いとか楽しいとか言ったことがない。旅から帰ったが旧坊には入らない。安宅(註:『広辞苑』(第七版)には「石川県小松市の西部、日本海沿岸の一地区」とあるが、後に「播磨灘に向い」とあるので、讃岐の地名であろうか)の海岸に行って洞窟に入った。

家人は嘆いて諭すけれども応じない。毎日一度村に行って飯を乞う。人が御馳走しようとしても受けない。又少しでも嫌がる風を見ると受けない。食べ物を窟に投げる様なことをすれば決して食おうとしない。

頭髪は蓬(註:よもぎ)の様に長くなっても剃ろうとしない。人が強いて身を清めようとすれば強いて拒みもしない。冬でも夏でも一枚の袷(註:あわせ。普段着用の着物か)を着て、着がえは持たない。唯 石の上に臥するだけ。巨浪が窟に入れば波に随って窟に還える。漁人はよく深夜にその窟から念仏の声がもれるのを聞いた。

その窟は北は播磨灘に向い、東は阿波の鳴門に望み、南は天を摩す(『広辞苑』(第七版)によると「せまる」という意味)高山で日月の光を覆うという風景、ここに止まること凡そ二十年。

そこで或人が尋ねた。「どこがよくてこんな所に永年おるのか」「いや別に…」「水想観(註:『観無量寿経』に出てくる観察の方法)をやっているのか」「いゝや」うるさくなると背を向けて臥して答えない。

国主高松候の弟、松平図書が訪れたが口をきかない。黄金若干を贈ったが見向きもしない。他の人が見かねて、「勿体ない、有難く頂くものよ」というと「欲しければお前さんもって行け、わしには用事はない。」

国主の父君龍雲公が、人に命じて無理矢理連れ帰り、近侍(『広辞苑』(第七版)には「主君の近くに仕えること。また、その人」とある)に命じていろいろ事情を尋ねさせたが一切答えない。「何にも知りません。早く帰らせてもらえば一番ありがたい」とだけ。それならと、冬着と夏着を贈って帰したが、自分から着ようとはしない。人が強いて着せれば拒むでもない。賊が来て奪えば、またなすがまま。赤裸となっても衣を人に乞うことをしない。

天和二年五月、四十九歳の時、辞世の偈と和歌を一首づつ書いて人に見せた。三年の春断食三十余日に及んだが死ねない。「定業がまだ尽きないな」といって、それから又毎日一度食を乞うて歩くようになった。

高松に生武沢素紅という武士がいた。諸名徳に参じて弁論流るるが如くであった。一日窟に至って種々の問を設けた。それに答えて教清はいった。「法門の事は智行の人が知っておる、府下の緒刹(註:「刹」は寺の意味)の耆宿に問いなさい、わしは知らん」

素紅は「府下の緒徳は皆よく知っているが感心する人はないない。ただあなたの風を慕うて来たのです。若し何も教えないとならば、私の遠来の労は空しくなる」と強要がましい。教清はこれを悦ばない。

「アンタは何宗か」「真言宗です」

「そんなら弘法大師の教の通りに修行しなさい。即身成仏疑いなしじゃ。宜しく帰依する寺の僧にその道をよく尋ねなさい。今時の人は動(やや)もすれば法の尊信べきを忘れて、好んで僧の過を説こうとするが、それは大きな間違いというもの、泥中の蓮を見なさい、泥を見ずしてただ美しい花を咲かせようとしている。又、汚い袋に入った金でも、袋のことは問題にせず、ただその金を取るではないか」と言いおわるとゴロリと横になって大きないびきをかいている。素紅は歎服して帰り去った。

貞享二年の春、真言宗の本浄という人が二三の同志と之を訪問して道を談ずることもしばし。

教清曰く「わしは一向宗じゃ。ただ一向一心に万事を放下して念仏するだけ。この窟にも数珠や袈裟ころもも置いていたのだが海水や雨水のために皆朽ちたから用いないだけである」といったが行乞の時間になったといって村に出た。本浄等は余儀なく相伴うて出たが別れに臨んで本浄が「再会の因縁を待ちます」というと「いやもう娑婆で再会の要はない、どうか浄土で再会したいものじゃ」(以上)

浄土真宗及び仏教について、他の方もいろいろ記事を書いてくださっています。 詳細は下記URLをクリック。

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