築地本願寺の報恩講(11月11日~16日)では、パワーポイントとプロジェクターを使った絵解き布教が開催されます。若い世代の方がパソコンの操作に慣れているため、近年は、青年僧侶が担当しております。

例年、プロジェクターにパワーポイントのスライドを写し、参詣者の前で絵解きを行うのですが、今年度はコロナウイルス蔓延という状況もあり、事前に録画したものを流すという事になりました。

私も御絵伝四幅の内の第一幅目を担当させて頂くことになり、先日ようやく事前録画を済ませました。普段、パワーポイントを使うこともあまりなく、録画や録音も不慣れでありましたので、親鸞聖人のご生涯を偲ぶうえで一助となれているのか、かなりの不安です。

原稿とスライドがほぼ完成した段階で、『親鸞聖人 御絵伝を読み解く』沙加戸弘著という本を拝読して気づいたのですが、私の作成した動画は「絵解き」というより「絵説」寄りです。

「実際の史実はどうであったのか」という事に関心がありましたので、描写された絵からの仏法の味わいや伝承についてあまり触れていません。親鸞聖人の幼名であったとされる「松若丸」という名前や、出家の際に詠んだとされる詩についても触れておりません。

「絵解」と「絵説」の違いについては、『親鸞聖人 御絵伝を読みとく』沙加戸弘著に以下の様に説明されています。

「絵解」とは、絵巻物や掛幅になった絵伝などの、一つ一つの絵を、教義と結びつけて解釈するものであります。決して絵の説明ではありません。

描かれた状況の説明や、人物・事物の名称を伝えることでもありません。単なる絵の説明は、古く使われた「絵説」という名でよび、「絵解」と区別すべきであると筆者は考えています。

「絵解」は、一木一草に至るまで、仏法のどのような働きを表現しているのか、描かれた人物のどのような思いを表現するためのものか、それを解釈し、同行に伝えるものであります。

昨今、この「絵解」と「絵説」を混同することがよくありますが、この二つは、混在することがあっても、混同してよいものではありません。「絵解」はあくまで、絵を解くものであります。

『親鸞聖人 御絵伝を読みとく』沙加戸弘著 20頁

『親鸞聖人 御絵伝を読みとく』沙加戸弘著には、絵解の台本がついているのですが、絵解ならではの説明がされています。たとえば、第四段「蓮位夢想」、この段は、親鸞聖人の晩年に親しくお側に仕えていた蓮位坊の夢にまつわる話なのですが、夢の中で聖徳太子が親鸞聖人を阿弥陀さまの化身として礼拝しています。

ここまでは『御伝鈔』にも書かれていることなのですが、ここから更に想像を膨らませて以下の様に語っていらっしゃいます。

聖徳太子は、観音の垂迹。その観音様が礼拝して、「貴方こそ阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」とおっしゃっておられるのでありますから、御開山は阿弥陀如来の化身であること、疑いはない、ということになります。

実はこの礼拝にはもう一つの訳がございます。それは過ぎにし六角堂の段で、観音様が御開山に肉食妻帯を勧めた。いくら末世の衆生の為とはいえ、観音様からいえば師匠に当たる阿弥陀如来の化身である御開山に、おほけもなく肉食妻帯を勧め奉った。これは譬えてみれば、安宅の関で、武蔵坊弁慶が主君九郎判官義経を杖で打ち据えたようなものであります。

いくら関所を通るためであるとは申せ、主君に手を掛けた事は紛れもない事実であります。その武蔵坊弁慶の身を焼くような想いを察した関守富樫左衛門は、間違いなく義経主従であることを知りながら、身の切腹を覚悟の上、一行を通します。

関守富樫左衛門はの情によって、辛くも関所を通過した後、弁慶が義経に這いつくばって涙ながらに詫びる場面は、歌舞伎の勧進帳などでご承知の事と存じます。

今もちょうど同じ事で、末世の衆生に真実の仏法を届けるためとは申せ、師匠阿弥陀仏の化現である親鸞聖人に、おほけもなくも肉食妻帯を勧め奉った、その御詫びを込めての、聖徳太子の礼拝であります。

『親鸞聖人 御絵伝を読みとく』沙加戸弘著 150頁

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