以前も紹介した『嫌われる勇気』〔アドラー心理学〕の中で、

「信頼」と「信用」について語られるシーンがあります。

以下、抜粋します。
嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

【哲人】ここでは「信じる」という言葉を、信用と信頼とに区別して考えます。まず、信用とは条件つきの話なんですね。英語でいうところのクレジットです。たとえば銀行でお金を借りようとしたとき、なにかしらの担保が必要になる。銀行は、その担保の価値に対して「それではこれだけお貸ししましょう」と、貸し出し金額を算出する。「あなたが返済してくれるなら貸す」という態度は、信頼しているのではありません。信用です。

【青年】まあ、銀行の融資とはそういうものでしょう。

【哲人】これに対して、対人関係の基礎は「信用」ではなく「信頼」によって成立しているのだ、と考えるのがアドラー心理学の立場になります。

【青年】その場合の信頼とは?

【哲人】他者を信じるにあたって、いっさいの条件をつけないことです。たとえ信用に足るだけの客観的根拠がなかろうと、信じる。担保のことなど考えずに、無条件に信じる。それが信頼です。

【青年】無条件に信じる?また先生お得意の隣人愛ですか?

【哲人】もちろん、いっさいの条件をつけることなく他者を信じていたら、裏切られることもあります。借金の保証人がそうであるように、こちらが損害を被ることもあるでしょう。それでもなお、信じ続ける態度を信頼と呼ぶのです。

【青年】そんなもの、頭の弱いお人好しですよ!先生は性善説に立たれているかもしれませんがね、わたしは性悪説に立ちます。赤の他人を無条件に信じたところで、利用されてお終いです!

【哲人】だまされて利用されることだってあるでしょう。しかし、ご自身が裏切った側の立場になって考えてください。あなたから裏切られてもなお、無条件に信じ続けてくれる人がいる。どんな仕打ちでを受けても、信頼してくれる人がいる。そんな人に対して、あなたは何度も背信行為を働くことができますか?

【青年】…いや。まあ、それはしかし……。

【哲人】きっと至難の業えしょう。

と続きます。

浄土真宗を端的に表した言葉に、唯信独達や信心正因という言葉があります。

つまりは、「信心」が大切であると。

そして、その信心は仏さまに対する「信頼」であると言います。

親鸞さんの法語が多く記された書物に『歎異抄』というものがありまして、こんな一節があります。

親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひと(法然)の仰せをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。

…中略…

たとひ法然聖人にすかされまゐらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからず候。

これだけ見ると、親鸞さんの信心は、「たとえ背信行為にあったとしても信じ続けることが大切なんだ!」というアドラーが述べる信頼に同じように見えますが、内実は180度違います。

どう違うのか。

千葉乗隆先生・徳永道雄両先生が執筆された『親鸞聖人―その教えと生涯に学ぶ―』の中の一節を紹介します。

あるときヨーロッパ真宗会議に出席していて、親鸞聖人の「信」はいま自分にはたらいている本願にまかせるということであって、けっしてそれを対照的に信じるということではないという話をしていた。

するとあるドイツ人の女性が

「その事はよく理解できましたが、それではどうしたら本願にまかせることができますか?」

と予想もしなかった質問をしてきた。

「どうしたら本願にまかせることができるのか」という問いは、すなわち「どうしたら本願を信じることができるのか」という問いであり、さらにいえば「どうしたら本願に救われるか」というきわめて深刻な問いでもある。

この質問に答えられないままうろたえていた時、私の目にとまったのが彼女に抱かれて眠っている八カ月の女の子で、その名をマリアという赤ちゃんだった。

それで私はとっさに「マリアに訊いてみたら?」といってしまったのだが、その女性はただちに「よくわかりました。それで十分です」と答えてくれたのである。

マリアがお母さんの胸で眠っているということは、彼女がお母さんにまかせきっているということであり、それはつまりお母さんを信じ切っている姿でもある。

そして、マリアをしてその状態に安んじさせているものは、いうまでもなく現に彼女を抱いているお母さんの愛である。

浄土真宗で信心を獲るにはどうすればいいのか。

それには、方法がありません。

私たちのすることじゃないのから。

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