この記事は前回の記事の続きです。

生きる意味とは「他人が生きる意味を考えることのお手伝いをすること」であるとアウシュビッツの強制収容所に収容された経験を持つ精神科医のV・E・フランクルは著書の中で言います。

これを受けて、大阪府の安方哲爾先生は築地本願寺常例布教の場でこうお話くださいました。


私がお寺に参りお念仏を大切にすることは、未だご縁のない方にお念仏を勧めることになるのであり(これが浄土真宗の利益の一つである)、それがそのまま
V・E・フランクル の言う生きる意味となる。


この話を受けて、再度、V・E・フランクルの著書を読んでみました。

『夜と霧』を最初に読んだ時は、アウシュビッツの強制収容所の過酷な状況に注目が傾いてしまいましたが、再度読んで、V・E・フランクルが伝えたいことは「生きる目的を持つことがいかに重要か(実際の生死に関わる)」ということを強く感じました。

生きる意味を見失う人々の特徴

後に述べますが、生きる意味を持つか持たないかということは、過酷な状況で生死に影響が出るほど重要なことです(過酷な状況では身体に大きな影響がある)。

では、どういった人たちが生きる意味を見失うのでしょうか。

V・E・フランクルの著書によると、還元主義的な人間は生きる意味を見失いやすいと言います。

私たちの身体をバラバラにして、一つ一つのパーツがどの様な機能を持っているのか、そしてその様なパーツが集まって構成されるのが自分であると考えるような方々です。

つまり、自分が自分をどの様に捉えているのか、という主観を無視し、客観的に自分はどの様な機能を持った存在なのか、と考えるような方です。

本日の私の講演は「無意味さ-精神医学への挑戦」という題になっていますが、本当は「無意味感」とすべきだったかもしれません。実際、今日の精神科医は、無意味さの感情を訴える患者-あるいは「非-患者」と言うべきでしょうか-に直面することが以前よりもはるかに多くなっているからです。私の手もとに一通の手紙があります。ここでその一節を引用したいと思います。「二十二歳です。学位を取得し、デラックスな自動車を持ち、経済的にも保障されています。その上、持て余すほど多くの『セックス』と権力とが私の意のままになっています。ただ私はどうしても疑問に思わずにはいられないのです。一体それらすべてにどういう意味があるのだろうか、と」。もっとも、患者たちは無意味感を訴えるだけではありません。彼らは、私が「実存的空虚」と言い表した空虚感をも訴えているのです。

『意味への意思』P6

とはいえ、無意味感は、それ自体としては神経症ではありません。少なくとも厳密な臨床的意味での神経症ではありません。しかし仮に無意味感を神経症と解してよりとすれば、社会因性の神経症と解するのが最もわかりやすいでしょう。(5)無意味感の広がりに関しては、その事情はともかくとして、一方のアメリカの学生と他方のヨーロッパの学生とでは程度の差があります。しかも、統計学的方法による抜き取り調査の結果わかったことは、ウィーン大学で私の講義を受講しているオーストラリア人・ドイツ人・スイス人学生のうち二五パーセントの者が無意味感を体験していたのに対して、アメリカ合衆国からウィーンに来た受講生では、その割合が六〇パーセントにのぼったことであります。 この差異は何に由来するのでしょうか。それは還元主義のせいであります。アングロサクソンの国々においては、還元主義が精神生活を支配しています。もっとも、それがわれわれの国〔オーストラリア〕においても珍しいことではないことは言うまでもありません。しかも今に始まったことではありません。私は今でも非常にはっきり覚えているのですが、私の中学生の先生が、人生とは「結局、燃焼過程、酸化過程にほかならない」と強調しました。それに対して、私は-当時十三歳でしたが-跳び上がって、彼に面と向かって次の問いを投げつけました。「もしそういうことなら、人生にはどんな意味があるのですか」と。もっとも、この場合には、還元主義という以前に、むしろ酸化主義について議論すべきだったのでしょうが…。

『意味への意思』P8

(11)ジョン・A・ハワードは、麻薬に関しておそらくアメリカ合衆国で最も大きな権限を持っている官庁である国家マリファナ麻薬委員会のメンバーであるが、その人物が自分の経験を次のように総括している。「麻薬摂取の罠に陥った何百万という若い人々は、そのほとんど大部分が、人生の目的のなさという苦痛を和らげようと麻薬に手を出したのだと、私は確信するようになった」(私的な報告)。ここでいう「ほとんど大部分」というのがどの程度の割合であるかは、ニューヨークの著名な精神科医スタンリー・クリップナーの発言から明かになる。彼が種々の心理テストや統計に基づいて見出したところによれば、若い麻薬中毒患者のうち「すべてが無意味であると思った」者の割合はじつに100パーセントだったのである。

『意味への意思』P42

生きる意味を見失った方々の行く末

生きる意味を見失っても、建康な方は直接死に繋がることはないのでしょうが、極限の飢餓状態にあっては、生きる意味を持つか持たないかで自分の命の維持に大きく関わってきます。

『夜と霧』によると、強制収容所に収容されている囚人は、クリスマスと新年の間に大量に亡くなったと言います。

収容者達は、クリスマスまでには強制収容所から解放され自宅に帰ることができるという淡い期待を漠然と持っていましたが、その望みが根拠なきものであると知らされると、ギリギリの状況にあった途端自分の命を維持することが出来ないようになります。

「生きる意味」とは、私たちの身体に直接影響を与えるほどの大切な事なのでしょう。

医長によると、この収容所は1944年のクリスマスと1945年の新年のあいだの週に、かつてないほど大量の死者を出したのだ。これは、医長の見解によると、過酷さを増した労働条件からも、悪化した食糧事情からも、季候の変化からも、あるいは新たにひろまった伝染性の疾患からも説明がつかない。むしろこの大量死の原因は、多くの被収容者が、クリスマスには家に帰れるという、ありきたりの素朴な希望にすがっていたことに求められる、というのだ。クリスマスの季節が近づいても、収容所の新聞はいっこうに元気の出るような記事を載せないで、被収容者たちは一般的な落胆と失望にうちひしがれたのであり、それが抵抗力におよぼす危険な作用が、この時期の大量死となってあらわれたのだ。すでに述べたように、強制収容所の人間を精神的に奮い立たせるには、まず未来に目的をもたせなければならなかった。

『夜と霧』P128

アルバート・アインシュタインはかつてこう言いました。「自分自身の人生を無意味に思う人は、不幸であるばかりか、生き抜く力も湧いてこない」。実際、人間は何かあるものに向って生きる場合にのみ生きつづけることができるのです。そしてこのことはおそらく、個々の人間が生き続ける場合だけではなく、人類が生き続ける場合にも当てはまるように思われます。こうしたことはすべて結局、明かに価値問題に帰着します。集団全体によって承認されるような価値というものが存在するのでしょうか。そして、この集団によって初めて人生が生きるに値するものになるような共通分母というものが存在するのでしょうか。これに関してひとつ確実なことがあるとすれば、それは、ただ単に生き続けることは、最高の価値ではあり得ないということです。人間であるということは、自分自身ではない何かに向かって方向づけられ、秩序づけられているということです。人間の現存在がもはや自分自身を超えて外へと指し向かうことがなくなるならば、その途端に生きながらえることは無意味になる、いやそれどころか、不可能にさえなります。少なくともこれは、私がテレージエンシュタットとアウシュヴィッツとダッハウの三つの強制収容所で過ごさねばならなかった三年間に私に与えられた教訓だったのです。またその後も、精神科の軍医たちが世界各地で確認したように、未来へ、未来の目的へと方向づけられていた捕虜、未来において充たすべき意味へと方向づけられていた捕虜こそ、最も容易に生き延びることができたのです。これと同じことが、人類とその生存が問題になるような場合には妥当しないとどうして言えましょうか。

『意味への意思』P35

どんな時に生きる意味を感じるのか

どんな時に生きる意味を感じるのか。

V・E・フランクルの主張を端的に示すならば、仕事に成功を収めた時と未来に可能性を持った時と言えるでしょう。

しかし、この二つ(仕事を成功させること、未来に可能性に持つこと)に生きる意味の根底を置くならば、いずれは破綻しそうです。

いずれは誰もが老いによって自分の未来に希望が持てないようになり、年を負うごとに能力が落ち、仕事で成果を出すことが難しくなってくるからです。

クラムボウは、シスター・メアリー・ラファエルやレイモンド・R・シュレイダーと共同して、意味への意思の表れを測定する心理テストを開発・実施しました[22]。意味への意思が最もはっきり現れていたのは、被験者が職業に没頭し成功をおさめている場合でした。これによってテオドーレ・A・クッチェンの仮設[23]、すなわち、意味への意思は心的に正常であるかどうかを測る信頼するに足る尺度である、という仮設が立証されたのです。

『意味への意思』P16

極限の状態でどこに生きる意味を見出すのか

人は、仕事に成功した時と未来に可能性を持っている時に生きる意味を見出すことができると述べましたが、その二ついずれも破綻している場合はどこに生きる意味を見出せば良いのでしょうか。

『アウシュビッツの強制収容所』では、いずれも破綻していますし、普通に生きていても年老いていずれは力無くして終わっていかねばなりません。

『アウシュビッツの強制収容所』では、生きる意味を持てない状況であろうとも生きる意味を持たねば、生命を維持することができません。

その中で至った結論が、「自分の生き方を通して 他人の人生の意味を考える手伝いをすること」であったのです。

たとえ、苦痛の状況にあったとしても、その苦痛に対してどの様に振る舞うのかというのが常に問われているのです。

フランクルは、強制収容所といういつ殺されるかわからない状況下で、「生きるとはどういうことか」という意味について考えてきた。そして彼の人生の意味は「他人が人生の意味を考える手伝いをする」ことでした。

『バカの壁』P108

「生きていることにもうなんにも期待がもてない」こんな言葉にたいして、いったいどう応えたらいいのだろう。(中略)ここで必要なのは、生きる意味についての問いを百八十度方向転回することだ。わたしたちが生きることからなにを期待するかではなく、むしろひたすら、生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題なのだ、ということを学び、絶望している人間に伝えねばならない。哲学用語を使えば、コペルニクス的転回が必要なのであり、もういいかげん、生きることの意味を問うことをやめ、わたしたち自身が問いの前に立っていることを思い知るべきなのだ。生きることは日々、そして時々刻々、問いかけてくる。わたしたちはその問いに答えを迫られている。考えこんだり言辞を弄することによってではなく、ひとえに行動によって、適切な態度によって、正しい答えは出される。生きるとは、つまり、生きることの問いに正しく答える義務、生きることが各人に課す課題を果たす義務、時々刻々の要請を充たす義務を引き受けることにほからない。

『夜と霧』P129

善悪の決定ということは、教育者にも精神科医にもできません。それに古い意味での道徳も間もなくその役目を終えてしまうでしょう。ということはつまり、われわれは遅かれ早かれ、もはや道徳を説くのではなく、道徳を存在論化することになるでしょう。つまり、善と悪は、われわれがなすべきことまたはなしてはならないことという意味で定義されるのではなく、人間に委ねられ求められている意味の充足を促すものが善と考えられ、そのような意味充足を妨げるものが悪と見なされることになるでしょう[36]。道徳はしかし、存在論化されるだけでなく、さらに実存化されねばなりません。われわれは価値を教えることはできません-われわれは価値を生きなければならないのです。そして、われわれは他者の人生に意味を与えることはできません-われわれが彼に与えることのできるもの、人生の旅の餞(はなむけ)として彼に与えることのできるもの、それはただひとつ、実例、つまりわれわれのまるごとの実例だけであります。というのは、人間の苦悩、人間の人生の究極的意味への問いに対しては、もはや知的な答えはあり得ず、ただ実存的な答えしかあり得ないからです。われわれは言葉で答えるのではなく、われわれの現存在そのものが答えなのです。

『意味への意思』P30

生きる意味を見いだせた者の利益

生きる意味を見いだせるということは、つまり自分の人生を意味のあるものとして受け止めることが出来ることを言うのでしょう。

たとえ、苦痛を受けとめばならない状況にあろうとも、それは意味のある苦痛へと転じていくのです。

(9)「意味を探し求める人間」が意味の鉱脈を掘り当てるならば、そのときその人間は幸福になる。しかし、彼は同時にその一方で、苦悩に耐える力をももった者になるのである。というのは、苦悩は、それ自体としては人間に絶望を生じさせるものではなく、むしろ意味がないと思われる苦悩だけが人間を絶望に至らしめるからである。それゆえ、次のような公式が成り立つ。絶望=苦悩マイナス意味。つまり、絶望とは意味なき苦悩である、ということである。

『意味への意思』P42

浄土真宗と生きる目的

既にご逝去された梯實圓和上の言葉を借りるならば、浄土真宗とは、阿弥陀如来の願いの文脈の中に生の意味・死の意味を伺っていくのです。

ですから、この生は仏さまに出会う為の人生であった、力無くして終わっていかねばならないけれども、それはただむなしく終わっていくのではなくて、仏の境界に参っていくのであると伺っていくのです。

そして、V・E・フランクルが「生きる目的は他人が生きる目的を考えるお手伝いをすることである」と言うことに寄せて味わうならば、私が浄土真宗を依り所として、この人生を生き抜くという姿が、私の後ろ姿を見たものを育てることになる。。

たとえ、ベッドのうえで全く動けないような状況になろうとも、その様な状況に対しての私の振るまい方が他人に生き方に影響を及ぼすことになる。

それがそのまま私の生きる目的になり、この命に合掌していくことができるのでしょう。

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