世界を認識するのに言葉はどの様に影響するのかという疑問

今回の記事は、以前アップロードした以下の記事と少し関連しています。
言葉を理解する仕組み ① -宮崎県小林市の移住促進PRムービ-
言葉を理解する仕組み ② -音素と意味-

上記の記事の内容を大雑把に言うと、私たちは言葉を理解する際に以下の様なプロセスを脳内で行っています。(参考:町田健著『コトバの謎解き ソシュール入門』『ソシュールのすべて』 )。

  • 具体的な音(例:inu)を耳で聞く
  • その音を頭の中にある音(音素)(※1)と照合する
  • 音素の列(音素列)と、それに対応する概念(※2)を結び付ける

(※1)人によって千差万別(音の高低や声の抑揚)である「inu」という発音を、同じ「inu」と認識するために、脳内で照合される「inu」という音のイメージ(「inu」という音の集合体)。

(※2)イヌと言っても、柴犬やチワワなど色々な種類がありますが、色や形や大きさ等、細かい特徴を削ぎ落とした脳内にあるイヌのイメージ。

ですから、具体的な音(例:inu)という音を耳で聞く際に、「これは日本語である」という考えが頭の中にないと、頭の中にある「inu」という音のイメージと物理的な「inu」という音を照合するという作業が脳内で行われないのです。 

その事を表す例の一つとして紹介したのが、「小林市移住促進PRムービー」でした。「フランス人が喋っているからフランス語であろう」という先入観が働き、実際には西諸弁で喋っているのですが、一切頭の中に入ってきません。

宮崎県小林市移住促進PRムービー

そこで、この様な疑問が膨らんできました。具体的な音を聞く時、脳内にある先入観によって判別するならば、「世界を認識する際に、言葉はどの様な影響を与えているのか」という疑問です。

その疑問を解消してくれる手軽な本(『ことばと思考』今井むつみ著、以下「本書」と略します)を見つけましたので、内容を紹介していきたいと思います。

この世界のあり方について

「この世界がどの様なあり方をしているのか」という事について、本書ではウォーフ仮説(※1)で有名なベンジャミン・リー・ウォーフの言葉を引用しています。

(※1)本書ではウォーフ仮説について本書では以下の様に記されています。

言語と認識との間にどのような関係があるのかという問題に関して、最もよく知られているのは、先ほどのウォーフの思想だ。ウォーフはアメリカ先住民のホピ族の言語であるホピ語の分析などをもとに、人の思考は言語と切り離すことができないものであり、母語における言語のカテゴリーが思考のカテゴリーと一致する、と主張した。

われわれは、生まれつき身につけた言語の規定する線にそって自然を分割する。われわれが現実世界から分離してくる範疇とか型が見つかるのは、それらが、観察者にすぐ面して存在しているからというのではない。

そうではなくて、この世界というものはさまざまな印象の転変きわまりない流れとして提示されており、それをわれわれの心ーつまり、われわれの心の中にある言語体系というのと大体同じものーが体系づけなくてはならないということなのである(『ことばと思考』P60)。

この世界を「さまざまな印象の転変きわまりない流れ」と記しております。分かったような分からないような表現ですが、仏教的に言うならば「全てのモノは刹那刹那に変化しており、言葉で表現できるような固定的な実体はない」というような表現になるのでしょうか。

言葉によって現実をカテゴリー化する

全ての言葉が固有名詞だった場合

全ての言葉が固有名詞だった場合、具体的な一匹一匹の動物(動物でなくてもいいのですが)に「ポチ」「たま」「ミケ」「タロー」等、名前をつけなければならなくなり、無数の言葉が必要になってきます。

また動物の個体名に限らず、私たちの「歩く」という行為一つとっても、「いつ歩いたのか」「どこを歩いたのか」「どの様に歩いたのか」によって固有名詞が生まれるならば、私たちの記憶力では扱いきれない程の言葉が生まれてくることになります。

カテゴリー化とは

言葉というのは世界をカテゴリーに分けます(言語学では「範疇化」と言うそうですが、本書では一般的に浸透している「カテゴリー」という言葉を使っています)。

「カテゴリー」とは同じ種類の集まりのことです。「イヌ」と言った場合、個体毎に違う毛の長さ・色・質、尻尾の長さ、身体の大きさ等は無視され同じ種類のモノとされます。

モノ以外のカテゴリー

「カテゴリー」と言うと、「モノのカテゴリー」を頭に思い浮かべますが、カテゴリー化できるのはモノだけではありません。先ほど「歩く」という行為を少し取り上げましたが、「歩く」という言葉も既にカテゴリー化された言葉です。

老夫婦の朝の散歩も「歩く」ですが、競歩の選手が他の競技者と競い合いながらゴールを目指す行為も「歩く」です。見た目も状況も目的も全く違いますが、「歩く」というカテゴリーに収めてしまうのです。

どの様にカテゴリー化するのかは文化によって違う

世界をどの様にカテゴリー化するのかは文化によって違います。例えば、日本語の「走る」という一括りの言葉を英語では「run(走る)」,「jog(ゆっくり走る)」,「sprint(全力疾走)」,「dash(突進する)」と細分化します。

反対に、 英語では「go across」 と表現する行為を日本語ではどの様な場所でどの様に横切るかで「ぬける」「渡る」「くぐる」「越える」と、表現を変えます。

傾向として、話し手にとって非常に重要なものは、その話し手が扱う言語も細分化されてくるようです。有名な例をあげると、カナダ、アメリカの北極圏の先住民族の言語であるイヌイット語では、「雪」の種類に応じて、その呼称が20以上もあると言います。

言葉の違いによる認識の違い

本書では、言葉と認識がどの様に関係するのかということについて、言語決定論者であるウォーフの仮説を取り上げ、そこに様々な検討を加え筆者の考えを述べています。

ウォーフ仮説について

言語と認識との間にどのような関係があるのかという問題に関して、最もよく知られているのは、先ほどのウォーフの思想だ。

ウォーフはアメリカ先住民のホピ族の言語であるホピ語の分析などをもとに、人の思考は言語と切り離すことができないものであり、母語における言語のカテゴリーが思考のカテゴリーと一致する、と主張した。

特に、ホピ族と英語をはじめとする標準西洋言語(Standard Western Language)との間の言語の隔たりは、「埋めることのできない、翻訳不可能な(incommensurable)」ほど深い溝であると言って、大きな物議をかもしだした。(『ことばと思考』P61)

ウォーフ仮説に様々な検討を加えた筆者の考え

本書では、ウォーフ仮説を検討するために「色の認識」「モノの認識」「性の認識」「空間の認識」「時間の認識」関する様々な実験を紹介し、以下の様に結論づけています。

引用した文章が結構長いので、一言で要約すると「言語が違うことにより、認識の違いは確かにあるが、相互の理解が不可能なほど隔てられていない」という事になります。

ウォーフは、冒頭で紹介したように、世界は「さまざまな印象の変転きわまりない流れ」として提示されており、言語がそれを整理し、秩序立てるのだ、と主張した。

しかし、本章で紹介した様々な実験の結果からは、色やモノの認識では、言語による話者の認識の違いは、広範囲に及ぶものではなく、カテゴリーの境界を歪めたり、分類のときに注目する知覚特徴が少し変わったりする程度、といえそうだ。

つまり、私たちの見える世界は、ウォーフが考えたように、万華鏡のように変転極まりなく無秩序で、言語がないとまったく整理されない、というものでもないといえる。

このように考えてみると、言語による世界の切り分け方は、非常に多様であるが、そこに何らかの秩序があり、普遍的なものがあるのではないかと考えられる(『ことばと思考』P99)

第二章では、ウォーフがその著作で書いたような「相互に理解不可能なほどの思考の隔たり」が存在するというのは考えにくい、という結論を述べた。

しかし、言語の様々な部分で、世界を切り分けるカテゴリーのつくり方、カテゴリーの境界が異なり、それぞれの言語の話者は、言語がつくり出すカテゴリーの境界によって、知覚や記憶を歪ませ、言語が推論や意志決定など、思考の重要な部分に大きな影響を与えているのだとしたら、やはり、異なる言語の話者の認識は、まったく同じであるとはいえないだろう。

どっちつかずの結論と見えるかもしれない。読者の中にも「いったいどっちなの、白黒きちんとつけてほしい」と思う方がおられることと思う。

しかし、「言語が思考のすべてを決定する」か、「思考は言語と独立で、人は万国共通に同じように思考する」か、という二者択一の問いが意味を成すほど、この問題は単純ではないのである(『ことばと思考』P206)

次回以降、言葉の違いによって、具体的にどの様な認識の違い・思考の違いが起こるのかについて紹介していきます。

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