『親鸞聖人伝絵』の成り立ち

親鸞聖人が亡くなられてから満33年にあたる1295(永仁3)年10月に聖人の曾孫にあたる本願寺第3代宗主・覚如上人が、聖人のご生涯をテーマにした絵巻を制作されました。『親鸞聖人 御絵伝を読み解く』沙加戸弘著によると、『報恩講私記』と伝絵は一体のものとして構想され、「定禅夢想」と「蓮位夢想」が付加された康永本(後に説明)が成立したことによって、この二つは有機的に一体化を果たします(この二段は阿弥陀如来の化身が親鸞聖人であるということを示しています)。

▼ 参照
『聖典セミナー 親鸞聖人伝絵』平松令三 著 1頁

『親鸞聖人伝絵』の体裁

この絵巻というのは、紙を横に長く貼りつないで、これに文章(「詞書き」と言います)と絵とを交互に配置した巻物で、平安時代の中期から物語を題材として制作が始まり、親鸞聖人ご在世の鎌倉時代になると、戦争の話や寺院の由来などをテーマにした絵巻が盛んに作られるようになっていきました。

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ことに覚如上人の青年期には、高僧方の伝記を絵巻形式で作ることが流行し始めていました。覚如上人はその風潮を先取りするかのように、親鸞聖人の絵巻を制作されたのでした。この時、覚如上人はまだ26歳という若さでしたが、それより前、2年間にわたって、父・覚恵上人と一緒に東国に下向して、曾祖父である親鸞聖人の遺跡を巡拝したり、親鸞聖人から直接教えを受けた門弟たちに会って、聖人の行状についてのお話を聞いたりして詳しく調べ、それにもとづいてこの制作に当たられたようです。

詞書きは覚如上人自ら筆をふるい、絵は康楽寺浄賀という画家に描かせました。これが「親鸞聖人伝絵」、略して伝絵です。

▼ 参照
『聖典セミナー 親鸞聖人伝絵』平松令三 著 1-2頁

度重なる推敲と改訂

推敲と改訂を重ねる伝絵

こうして「絵伝」が出来ると、門弟達は大変よろこんで、上人にお願いしていくつも作っていただこうとしましたし、上人は上人で、その制作の都度、推敲改訂を加えられました。たとえば、全体の題名について、最初は「善信聖人絵」と名付けられたのですが、二か月後に関東の門弟に与えるための一本を制作した際には、「善信聖人親鸞伝絵」と改め、晩年近くになると、「本願寺聖人親鸞伝絵」となっています。

初稿本について

内容も最初は上巻六段、下巻七段の計十三段だったのですが、後になると、別に言い伝えられていた聖人のご事蹟を二つ加えられて、上巻八段、下巻七段の計十五段となっています。

覚如上人が最初に制作された初校原本は、上人の手許、つまり本願寺に保存されていましたが、41年経った1336(建武3)年に、本願寺が南北朝の動乱に巻き込まれて炎上した際、焼失してしまいました。

高田専修寺本について

初稿からわずか二ヶ月後に、題名など一部に若干の修正を加えて制作し、関東教団に送られた本は今に伝えられています。それが津市の高田派専修寺の所蔵本(表ではこの色のマーカーで強調しています)で、初稿原本の通り上巻六段、下巻七段の十三段からなっています。

西本願寺本について

また初稿本にわずかばかり修正を加えたほか、定禅法橋の夢想という新しい一段を増補した本も伝えられています。それが西本願寺に所蔵されている本で、巻頭と巻尾に琳阿弥陀仏という人の名が墨書されていますので、「琳阿本」とも呼ばれることもあります(表ではこの色のマーカーで強調しています)。

上巻七段、下巻七段の十四段構成という点で、高田専修寺本の次に位置するように見えますが、題名が「善信聖人絵」となっているなど、初稿原本に忠実な点が多いので、「伝絵」のなりたちを研究する上で多くの問題を提供してくれる貴重な本です。

東本願寺本について

その後も覚如上人は改訂を試みられ、上人74歳の1343(康永2)年に制作された本が東本願寺に所蔵されています(表ではこの色のマーカーで強調しています)。この本は、蓮位房の夢想という一段が増補せられて、上巻八段、下巻七段の十五段構成になっているだけでなく、格段の絵も、構図をはじめ大きく変化していて、新装改訂版といった雰囲気をまとっています。

永仁3年、26歳に稿を起こしてから48年が経過しており、上人最後の改訂版でした。このため本願寺教団では、これを「伝絵」の最終決定版と受けとめ、本願寺から授与する四幅の絵伝はこの絵に準拠して制作され、『御伝鈔』もこの本の詞書に基づいて作られました。

通称日付段数詞書き備考
初校原本焼失
高田専修寺本1296(永仁3)年12月13日付初稿13覚如上人自筆重文
西本願寺本1296(永仁3)年10月12日付 根本奥書14覚如上人自筆重文
東本願寺康永2年本1339(歴応2)年4月24日付
1343(康永2年)11月2日付
覚如上人自筆重文。本願寺教団はこれを「伝絵」の最終決定版として扱う。
東本願寺弘願本1346(貞和2)年10月4日付15光養丸(善如上人)筆重文。もとは茨城県那珂湊市浄光土に所蔵されていた本。絵は高田専修寺本系の構図が多い。
千葉県照願寺本1344(康永3)年11月1日付15覚如上人自筆重文。詞書も絵も康永2年本と全く同様。覚如上人の自筆は外題および奥書の日付。
大阪市定専坊本存覚自筆重文。上巻8段、下巻を欠く。詞書は康永2年本と同様ながら、絵について独特な構図が見られる。
京都市仏光寺本14一切経校合段を含む。14世紀末頃の制作か。

▼ 参照
『聖典セミナー 親鸞聖人伝絵』平松令三 著 2-6頁

「絵伝」と『御伝鈔』について

絵巻というのは、もとは貴族たちが物語を鑑賞するために作ったのが始まりでしたから、同時にそれを眺めるのはせいぜい数人どまりで、多人数の人々が一緒に見るのに適していません。真宗寺院のように、大勢の門信徒の方々が集まる場には不向きな形式です。そこで絵巻の中の絵と詞書きとを切り離して、絵だけをならべて竪型の掛け軸にし、それを吊り下げて人々に見て貰い、詞書きの方は一冊の書籍にして、それを絵の前で読み上げることが考え出されました。

大衆本位の真宗教団にはうってつけの形式でしたから、たちまちそれが広く流布するようになりました。その絵の掛け軸が「絵伝」で詞書きを集めた書籍が『御伝鈔』です。

この様な掛服絵伝という形式は、なにも真宗教団の独創ではありません。そのころ既に掛幅の聖徳太子絵伝や善光寺如来絵伝などが作られていたので、それに追随して作られたのではないかと考えられます。親鸞聖人の絵巻を掛幅化するに際して、古来、覚如上人の長男・存覚の名が挙げられています。

存覚は真宗教団の民衆化を意図し、仏光寺了源らを指導して名帳・絵系図を制作するなどして大きな効果を挙げていまして、この絵幅絵伝の制作も彼の業績の一つとしてよいのではないかと考えられます。

その証拠の一つが、広島県山南光照寺に所蔵される一幅本の掛幅絵伝です。この絵伝は裏書きによって1338(建武5)年に制作されたことがわかるので、現存する絵伝の中で年代の明確なものとしては最古の作品なのですが、その裏書と、画面に記されている札銘の筆跡が存覚の筆跡であるとされています。

▼ 参照
『聖典セミナー 親鸞聖人伝絵』平松令三 著 3,6-8頁

「絵伝」の形式について

絵伝は横長(絵巻物)の「伝絵」と違って、縦に長い大きな画面にいくつもの場面が描かれているのですが、場面と場面の間には雲形の仕切りが設けられています。この仕切りを「すやり霞」と言います。すやり霞について、古い作品では淡い群青をぼかして著色するだけですが、時代が下がるにしたがって白線で輪郭を描いたり、江戸時代になると、複雑な形を作ったりするので、時代判定の有力なポイントになります。

絵伝はそのすやり霞を使って、一幅に何段もの場面を描いていますが、親鸞聖人の絵伝は、その場面の配置が必ずといっていいぐらい、下から上へという順序で配置されています。法然上人絵伝や善光寺如来絵伝などには、奇数幅は下から上へ、偶数幅は上から下へ並んでいたすることがあるのに、親鸞聖人絵伝だけは、一、二の例外を除いて、全て下から上へとなっており、特徴的です。

▼ 参照
『聖典セミナー 親鸞聖人伝絵』平松令三 著 8-9頁

絵伝の種類

現在、真宗教団で「御絵伝」と言うと、四幅からなる親鸞聖人の御絵伝を指しますが、四幅に定着したのは蓮如上人以後の本願寺において制作授与されてからのことで、それまでには、一幅だけのものや、二幅や三幅で一セットというものもありました。その代表的なものは以下の通りです。

一幅絵伝

中世に制作された絵伝の中で、一幅に全場面を納めた絵伝は、広島県沼隈町山南光照寺のものだけです(存覚の裏書があるもの)。1338(建武5)年、画工隆円によって描かれていますが、その指示は存覚が行ったと考えられています。画面全体を七段に分かち、その中に十三場面全部を描き、各場面に札銘を書いて説明にあてています。

二幅絵伝

上下二巻の絵巻物を掛幅化するには、二幅とするのが自然な成り行きだろうと思われるのにも関らず、実際は二幅本の絵伝は極めて少なく、津市上宮寺本(十四世紀末作と考えられる)、福井市浄得寺本(十五世紀初め頃作と考えられる)、奈良県本善寺本(永正十一年実如上人授与)しか知られていません。この中で上宮寺本は珍しい図柄で注目されますが、かなり破損しています。

三幅絵伝

現存する三幅絵伝は、三河の古寺に伝わる三点と東京本願寺本との四点だけです。この四点はともに十三段構成で、初稿本の伝絵を基にして制作された古本と認められますが、中でも妙源寺本(重文)は十四世紀初頭の制作であって、現存最古の絵伝と考えられています。また如意寺本は1354(文和2)年制作の史料が保存されている点で貴重です。

四幅絵伝

現存する絵伝は圧倒的にこの四幅絵伝ですが、その中で最も古いのは石川県大聖寺の願成寺に伝えられているものです。これは各幅に裏書があって、応永二十六年(1419)七月22日、画工民部法眼隆光によって制作されたことがわかる点でたいへん貴重です。隆光というのは他に作例があって、京都東山の粟田口を本拠とする絵師で、祇園社の絵所もつとめていたことがわかっています。本願寺のすぐ近所だったのです。しかもこの裏書の標題は「大谷本願寺上人御縁起」となっていて、本願寺から当寺へ授与されたことが知られています。当時の本願寺宗主は第6世巧如上人でした。

絵は完全に康永2年本の伝絵に依っていて、各幅への場面の割り振りなど、現在の四幅絵伝とほとんど変わりありませんが、各場面毎に、短冊型の銘札を設けて、たとえば「於六角堂御夢想所」というような説明が書き加えられている点は、一幅絵伝や三幅絵伝と同様で、古い形を残していると言えます。

蓮如上人の御一代に盛んに制作される

そして蓮如上人が宗主として継承すると、その四幅絵伝を盛んに制作して寺院へ授与されました。その最初と考えられるのが1464(寬正5)年の裏書を持つ大津市堅田本福寺本と滋賀県赤野井別院本であり、1470(文明2)年には堺市真宗寺本、尾張河野六坊本が作られています。

こうして蓮如上人御一代の間に少なくとも十本以上の絵伝が制作授与され、実如・証如上人以下の歴代宗主はその風を受けつぎ、江戸時代になるとそれが一段と加速して、いまではほとんどの真宗寺院に備えられるほどに普及したのでした。いま「御絵伝」というと、この形の四幅絵伝を意味します。

東西本願寺の絵伝の相違

近世初頭、本願寺が東西に分派すると、絵伝の画面にも多少の変化が現れます。たとえば第四幅火葬の場面では、西本願寺系の絵伝は火焔が向かって左方へたなびいているのに対して、東本願寺系では向って右へたなびいて描かれる、という具合です。しかし、いずれにせよ微細な部分だけのことであって、絵伝の大勢は東西両本願寺とも相違ありません。

高田派や仏光寺派の絵伝

高田派や仏光寺派などの教団でも江戸時代に入ると、本願寺の四幅絵伝に倣って絵伝の制作授与を行い始めますが、それにはそれぞれの教団の伝承に依る独自な場面を加えているのが目につきます。高田派では信濃善光寺から一光三尊仏を迎えた専修寺建立段を加えてますし、仏光寺派では仏光寺の建立や一切経校合の場面が加わって独特な構成となっています。

六幅絵伝

もと甲斐国等々力万福寺にあった絵伝は、いま西本願寺に所蔵されていますが、六幅が一セットで、十四世紀末の制作と見られ、画面も善光寺や熊野を大きく取り扱った特異なもので、将来の研究が期待されています。高田派専修寺にも六幅からなる「高田正統伝絵伝」が所蔵されていますが、これは江戸中期のものです。

八幅絵伝

西本願寺には、毎年の報恩講の際、御影堂に掛けるために、1663(寛文3)年徳力善雪に命じて描かせた八幅の絵伝があります。美術作品としてたいへん秀でたものですが、絵の構成そのものは通常の四幅絵伝にもとづいたものですし、巨大な御影堂のための特別な誂であって、例外の絵伝と言えます。

▼ 参照
『聖典セミナー 親鸞聖人伝絵』平松令三 著 9-14 頁

『御伝鈔』の成り立ち

「伝絵」の中の絵だけを集めて作った画幅を「絵伝」と言うのに対して、「伝絵」の詞書だけを集めたものを『御伝鈔』と言います。しかし、この名称がいつ頃、誰によってつけられたのかは定かではありません。

しかし「伝絵」の詞書だけを集めて書籍とする作業は相当早くから行われていたようで、近年、山梨県慶専寺から1321(元亨元)年9月の奥書を持つ本が発見されました。これは高田専修寺本の「伝絵」だけに見える絵の中の説明文もそのままに書写されていますので、専修寺本からの制作であることが明かです。専修寺本が制作されてからわずか26年、おそらく関東教団の中で行われたものと見られます。ただ、現存するのは室町時代になってからの写本です。

岐阜県清見村楢谷寺には、1349(貞和5)年に書き写された本が伝えられています。この本は外題が「本願寺聖人親鸞伝絵」、内題が「本願寺聖人親鸞伝絵詞」となっており、蓮位房の夢想や定禅法橋の夢想の説話も入っていますので、康永2年本伝絵から制作されたかのように見えますが、「伝絵」の詞書は、第五段の選択集伝授の段や第九段の越後流罪の段は、『教行信証』「化身土巻」の文章を漢文のまま引用しているのに対し、この本はその漢文をすべて読み下し文に改めていて、単純に詞書だけを抜き出しただけのものではありません。

巻末の「右縁起画図之志」で始まる難解な漢文もきちんと読み下し文になっています。本としての体裁も、上質の鳥の子紙に謹厳な楷書体によって墨書し、それを粘葉綴としていて、高級な典籍となっています。

これらのことは、この本が読むための独立した書名となっていることを示しています。『御伝鈔』という書名こそついていませんが、実質上『御伝鈔』が成立していると言えましょう。

この本の奥書にある「貞和5年」は、覚如上人の八十歳にあたり、まだご存命中です。この本の願主釈乗観というのはどういう人かわかっていませんので、この本が覚如上人と直接関係があるのかどうか判断できませんが、少なくとも上人の生前に『御伝鈔』の実質的成立を示すものとして注目されます。

『註釈版聖典』に収録される『御伝鈔』について

『註釈版聖典』の『御伝鈔』は、江戸時代に刊行された西本願寺蔵版本を底本としていますので、『教行信証』引用の部分など、覚如上人著作原本では漢文のままの個所を読み下し文に改めるなど、『御伝鈔』として読みやすい本になっています。

ただ江戸時代の版本が底本なので、部分的は厳密に言うと問題がないわけではありません。なお、江戸時代になると、宗学者の中には『御伝鈔』格段に漢字四字からなる題名をつけて呼ぶ人が多くなりました。下記のものはその一例です。

(上巻)
(一)出家学道(二)吉水入室(三)六角夢想(四)蓮位夢想(五)選択付属(六)信行両座(七)信心諍論(八)入西鑑察(または定禅夢想

(下巻)
(一)師資遷謫(二)稲田興法(三)山伏済度(四)箱根霊告(五)熊野霊告(六)洛陽遷化(七)廟堂創立

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