われとなえ われ聞くなれど 南無阿弥陀 つれてゆくぞの 親のよび声

原口針水の世界(『珠玉のことば』大乗刊行会編 41 頁)

最初に示したのは、原口針水和上が歌った有名な詩ですが、『珠玉のことば』(※1)という本の中で、この詩の元となった詩について故・梯實圓和上がお書きくださっていたので、書き記しておきます。以下、引用です。

(※1)本書「あとがき」
この九月に創刊四百号を迎える『大乗』は、宗門内外の人たちに法味ゆたかな仏教家庭雑誌として広く親しまれている。本書は、その『大乗』に好評連載中の「珠玉のことば」のうち、昭和五十五年一月号から五十八年三月号に掲載した三十編を選び、一書にまとめたものである。

本願を仰ぎ念仏をよろこばれた先人の歌やことばを手がかりに、それら先人がみ教えに生きられた姿をしのんだ企画記事である。主に布教活動の第一線にある人たちに、一編ずつ執筆を依頼したが、それだけに、浅原才市さんらの妙好人をはじめ、宗学者・作家・歌人・死刑囚等々、実にバラエティに富んだ先人が登場している。

本書が、そうした先人に学び、法味を愛楽してもらう機縁になれば幸いである。
昭和五十八年八月 大乗刊行会


おそらく浄土真宗の法話を聞かれたほどのお方なれば、原口針水のこの歌を、どこかできっと耳にされたことがあるでしょう。それほどこの歌は、多くの人に親しまれ、深く味わわれてきました。

歌のこころは、今さら解説するまでもないほどはっきりしております。今こうして私の口から称名の声となってひびいている南無阿弥陀仏は、永遠ないのちの御親が、煩悩を超脱した清らかな悟りの世界へ”さあ、つれてゆくぞ、安心してくれよ”と大悲をこめてよびたもうている召喚のみことばであるというのです。

親鸞聖人は『教行信証』の『行文類』のなかで、南無阿弥陀仏のいわれをくわしくのべておられますが、そこに南無の訳語である帰命のこころを釈して、「帰命とは、本願招喚の勅命なり」とおおせられました。

これは”帰命”という字に寄せて、南無阿弥陀仏のこころを領解されたもので、名号は、阿弥陀仏が、いのちの願いをこめて、私を浄土へ招き、喚びかえしておられる勅命であるというのです。はじめにあげた針水の歌は、この聖人のみことばをうけて詠まれたものにちがいありません。

原口針水は、文化五年に、肥後国(熊本県)に生れ、若くして博多の万行寺の曇竜について真宗を学んだばかりか、文久三年、長崎へ出て、禁制のキリスト教をオランダの宣教師について学び、さらに神道、儒教にも精通していました。明治六年に本願寺派の勧学に任ぜられましたが、抜群の記憶力をもち、講義のときも、一切ノートはもたず、経論の文はことごとく暗誦して、しかも誤りなかったといわれております。まさに学徳兼備の名僧でしたが、明治二十六年六月十二日、八十六歳の高齢をもって往生を遂げられました。著書には『心地観経啓運録』『六字釈法語』『宝章三十二論題講説』などがあります。

はじめにあげた歌は、針水が七十七歳のとき、喜寿を祝ってくれた有縁の方方に、書き与えられたものだといわれています。しかし実をいうと、この歌には、その本となった漢詩があるのです。それは江戸時代の末期に出た長門国(山口県)阿武郡江崎の教専寺、大厳の次のような歌です。

罔極の仏恩報謝の情 清晨幽夜ただ名を称う
悦ぶに堪えたり我れ称え我れ聞くと雖も
これはこれ大悲召喚の声なり

広大無辺な仏恩を報ずるおもいから、すがすがしい朝も、静かな夜も、ただ御名を称えさせていただいています。それにしても何と悦ばしいことでしょう、私が称えつつ聞かせていただいているこの御名が、大悲の願いをこめて私を招き喚びます如来の御声であるとは……というのです。

この詩にまつわる次のようなエピソードが伝わっております。大厳は、石見の履善の弟子で出藍の誉れの高い学者でしたが、またさまざまな伝説にいろどられた豪放な名僧でした。寺にあるときはもちろん、道を歩いていても、いつも声高に念仏しておられたそうです。その学説は、選択本願念仏を信ずるというのが親鸞聖人の行信思想であるとする、いわゆる能行説で、同じような説をとなえた石泉僧叡師よりも精妙であったといわれ、『正信偈耳食記』や『行信略論』などの名著を残しております。

しかし一部の僧侶たちから、大厳の学説は信心正因、称名報恩という真宗の正統教義に反する異端であると非難され、ついに本願寺へ訴えられたのです。

訴えをうけて調査の任にあたったのが原口針水で、さっそく事情をきくために大厳を本山へ召喚しました。しかし老体に加えて病気がちであった大厳は、本山へ出頭することができないので、その代わりに行信論についての自身の見解を精密に書き送り、決して親鸞聖人の教えに反するものではないことを弁明されました。その書状の最後に、自身の念仏の味わいを七言の漢詩に託してしるされたのがこの詩だったのです。

これを読んで感動した針水は、大厳の行信論が決して異端でないことを確認するとともに、この漢詩のこころを和歌によみかえて、念仏の味わいを人々に伝えられたのが、はじめにかかげた歌だったのです。

三世に一仏、恒沙に一体、仏のなあかの大王さまが、われが後生は、おらにまかせよと、呼んでくださるけ、心配いらんだいなあ  源左

針水を慈父のようにしたうたくさんの道俗のなかに、鳥取県の山根村からわざわざ上京し、数日のあいだつききりで聴聞した足利喜三郎という三十歳前後の青年がいました。喜三郎とは戸籍上の名前で、通称は、源左衛門、略して「源左」とよばれていました。

彼は十八歳で父と死別しましたが、「困ったことがあったら、親様と相談せよ」といい残した父の遺言によびさまされ、死とは何か、親様にはどうしたらあえるのかと、必死にたずねつづけましたが、どうしても解決がつかず、思いあまって針水をたずねたのです。そのときは、ついにわからぬままに郷里へ帰っていきます。しかし間もなく、ふとした機縁で源左は、「おらがような悪いやつ」を、そのまま救うとおおせられる本願の親心を、「ふいっとわからせてもらった」のでした。

「三世に一仏、恒沙に一体、仏のなあかの大王さまが、われが後生は、おらにまかせよと、呼んでくださるだけ、心配いらんだいなあ」

源左はいつもこう語っては、「ようこそ、ようこそ、南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏」と、八十九年の長い、けわしい人生を、しかし充実して生き抜いていったのでした。ここにも如来によびさまされて開いた一輪の白蓮華があったのです(以上)。

(引用)『珠玉のことば』大乗刊行会編 41-47 頁

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