前回に引き続き『私とは何か 「個人」から「分人」へ』平野啓一郎 著の内容をご紹介します。人間は確固たる一つの自我があるのではなく、周りの方々との交流を通して、一人の人間の中に複数の顔を形成していくというのが著者の主張ですが、その一つ一つの顔(特徴)を「分人」という言葉でもって言い表しています。

この「分人」に似た言葉に「キャラ」や「仮面(ペルソナ)」という言葉がありますが、これらの言葉には本人が意図的に演じているという負の印象がまとわりつきます。それに対して、「分人」という言葉は、小さい子どもに対する私の態度、仕事関係者に対する私の態度、友人に対する私の態度、というように、コミュニケーションの相手によって自然に変わる私の特徴を言い表した言葉です。そしてこの「分人」は、それぞれの相手との交流によって私の中に形成されていくものである、というところまで、前回の記事でご紹介しました。

本書の中で著者は「分人」という言葉を用いて世の中の色々な現象を説明しているのですが、この言葉が現状を説明するのに非常にはまっていると感じたので、その内容をご紹介します。

新しいタイプの鬱病と自傷行為

新しいタイプの鬱病

著者は、新しいタイプの鬱病と自傷行為について、「分人」という言葉を用いて新鮮な解釈をしています。

まず、新しいタイプの鬱病とは、仕事場では体調に不調をきたしているのにも関わらず、プライベートでは溌剌と振る舞うことが出来るというものです。以前から、その様なタイプの鬱病があったのかも知れませんが、SNSの広がりによってプライベートでの行動が知れ渡り易くなったこともあり、私(西原)の周りにもその様な症状を抱えた方が見られるようになりました。

仕事場での私とプライベートでの私は切り離すことは出来ず絶えず一貫しているという考え方に基づくならば、仕事場で不調を訴えているのにも関わらずプライベートを謳歌する姿は仮病に見えてしまうかも知れません(実際に仮病だと叩かれている姿も目にします)。

しかし、色々な人間との交流によって形作られる一つ一つの人格(分人)の総体が一個人であると考えるとどうでしょうか。確かに、仕事場での私とプライベートの私はある程度関連しあっていますが、仕事場での人間関係や仕事そのものの不調によって、仕事場での私という分人が不調をきたしていると考えることも出来ます。

最近、耳にするのは「新しいタイプの鬱病」の症例で、体調が悪いと会社を休み続けているので、同僚や上司が見舞いに行くと、本人はピンピンして、友達と飲みに行っていた、という類である。

以前なら、単なる仮病と思われたに違いないが、本人は、収入の不安もあり、仮病など使って会社をクビになりたくはない。それでもどうしても行けない。しかし、友達に誘われると、急に体が軽くなって元気になるのである。

私は精神科医でもカウンセラーでもないが、この話を聞いて考えたのは、かつては個人を単位として発症していたウツが、今は分人単位で起きているのではないかということだ。

不幸な分人を抱えこんでいる時には、一種のリセット願望が芽生えてくる。しかし、この時にこそ、私たちは慎重に、消してしまいたい、生きるのを止めたいのは、複数ある分人の中の一つの不幸な分人だと、意識しなければならない。誤って個人そのものを消したい、生きるのを止めたいと思ってしまえば、取り返しのつかないことになる。

『私とは何か 「個人」から「分人」へ』平野啓一郎 著 108-109 頁

自傷行為について

自傷行為についても、新しいタイプの鬱病と同じ様な解釈を著者はなさっています。鬱病による体調の不調というものが、他者との交流によって形成される人格(分人)ごとに起こり得るように、自傷行為というのも、分人の総体である自己そのものを消したいという願望の表れではなく、不調を来している分人を否定したいといった願いが行動として表れたものという解釈です。

先ほど、私の世代に「引きこもり」と「自分探しの旅」という現象が多いということを書いたが、もう一つ、私がずっと気になっているのは、リストカットに代表される自傷行為である。引きこもりが、比較的、男性に多く見られるのに対して、リストカットは、独身の女性に多いとされている。

自傷行為は、一般には、自殺願望、あるいは、自殺未遂として理解されがちである。しかし、もし自殺の意図が明確なら、飛び降り自殺のような絶対に失敗しない方法もある。しかし、リストカットなどは、もしそれが本当に自殺未遂であるなら、むしろ成功の可能性がかなり低い方法である。自傷行為の複雑なところは、本当に死んでしまなわいように、自殺的な振る舞いをする点にある。

私自身は、自分の体を実際に傷つけてみたことはない。ただ、十代の頃には、一種の自傷的な夢想癖があって、それは一体、何なのだろうといつも考えていた。「Les petites Passions」(『滴り落ちる時計たちの波紋』所収)という五つの散文詩風の掌編からなる作品では、少年が、串刺しにされたり、切り刻まれたりする幻想的な場面を描いたが、あれは、私自身のその自傷的な夢想が元になっている。

私は最初、それを、一種の自己処罰感情なのだろうと考えていた。自分の中の悪なる部分を否定し、矯正するために、私の中の何かがー超自我と呼んでも、ロゴスと呼んでも、或は単に正義感でも何でも構わないーそうした苦痛を伴うような”罰”のイメージを必要としているのではないか。

しかし、私がそういう夢想を抱くのは、何か悪いことをした時というより、どっちかというと、恥ずかしいことをして、その場面を思い返してみるような時だった。あの時の自分を、記憶の中から消してしまいたいー傷つけたいとか、殺したいとかいうのではなく、自分のアイデンティティの中から抹消してしまいたい、という感覚である。ただ観念的に消すといっても、手応えがない。そこで、何か強い苦痛が感じられると、そのあるべきでない自分の姿が否定された実感が得られ、癒やされるような心地がするのである。

私はこの妙なクセと、文学作品の中で、主人公が苦悩し、死ぬことに読者が共感することとは、関係があるのではないかと考えるようになった。取り分け、十九世紀の名作には、主人公が最後に死ぬ作品が非常に多い。それは、作者の勝手な必然ではなく、読者も求めていたことだったはずである。彼らは、自らが感情移入した主人公が、自分の代わりに苦しみ、死んでくれることで、むしろ現実を生きられたのではないか?それは、遡れば、「十字架にかけられた神、血の飲用、『犠牲』との神秘的合体」(ニーチェ)を通じて、贖罪を実感するキリスト教徒の感覚と通底しているのではないだろうか。

「『フェカンにて』」という私小説風の作品で、私はそうしたことを考えた。

自傷行為は、自己そのものを殺したいわけではない。ただ、「自己像(セルフイメージ)」を殺そうとしているのだと。だから確実に死ぬ方法を選択しない。いや、むしろ逆じゃないのか?いまの自分では生き辛いから、そのイメージを否定して、違う自己像を獲得しようとしている。つまり、死にたい願望ではなく、生きたいという願望の表れではないのか。

『私とは何か 「個人」から「分人」へ』平野啓一郎 著 57-59 頁

次の記事では、死者との対話について、「分人」という言葉を用いた著者の考えをご紹介します。

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