以前にも紹介しましたが、最近読んだ中でも特に印象に残っているのが『私とは何か 個人から分人へ』平野啓一郎 著という新書です。

私たちには一貫した自分というものがあるのではなく他者との交流や環境によって複数の顔が育まれと著者は指摘し、その一つ一つの顔(人格)を分人と名づけています。この言葉をつかうと今まで理解できなかった状況が抵抗なく受け入れられるので不思議です。

例えば、新しい鬱病のタイプ。鬱病を患ったので会社を休みますと申し出た会社員のお見舞いに行きますと、その社員はプライベートでは溌剌と振る舞っています。少し前ならば「仮病」と判断されかねない様な現象ですが、著者は「分人」という言葉をつかってこの様に解釈します。

つまり、その社員の中には会社という環境で育まれた会社員としての人格と、プライベートな環境で育まれた(例えば)家族の中の父親としての人格があって、会社という環境で育まれた会社員としての人格のみ不調をきたした結果だと言います。

ここまで、以前にこのブログで書いたことですが、美学者の伊藤亜紗がラジオ番組「未来授業」でこれと非常に重なることを仰っていました(podcastで「未来授業」と検索すると拝聴できます。2021年1月20日放送分)。

現在、世の中は多様性を認めていこうという潮流の中で「ダイバーシティ」という言葉が盛んに叫ばれていますが、この言葉によって起こる弊害もあると伊藤氏は仰います。

多様性を認めていこうという風潮の背後には、埋没しやすい社会的少数者(マイノリティ)の意見を尊重していこうという考え方があるようです。社会的少数者(マイノリティ)の具体例として宗教やLGBTがありますが、その様な属性はその方個人の一側面に過ぎません。

これは個人的(西原)な経験談ですが、ある知り合いからこの様なことを伺いました。その知り合いの交遊関係の方の一人がある宗教団体に属しており、その宗教団体の発行する機関誌を周りに勧めてきたそうです。勧められた方々はダイバーシティーという言葉の浸透もあってか、機関誌を勧めてきた個人及びその方が所属する団体に嫌悪感を示すことはありませんでしたが、それ以来、機関誌を勧めてきた方を「○○(宗教団体名)の子」というラベリングがされてしまいました。

この様に、ダイバーシティーの浸透によって、個人の一側面(小説家・平野啓一郎氏の言葉を借りれば一分人)をその方の全体である様な錯覚が起きるという様な弊害が出てきました。

この様な状況の中で、美学者の伊藤亜紗氏は、個人の中のダイバーシティー(一人の人間の中には、地域の一員、性別、宗教、家族の中の役割)に目を向ける事が大切だと指摘しています。

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