以前、このブログで「ダイバーシティーという言葉の弊害」というタイトルの記事を書きました。社会的マイノリティーを尊重していこうという世の中の潮流の中にあって、社会的マイノリティーな属性を強調するあまり、その人の一側面をその人の全体である様な錯覚に陥ってしまうのではないか、もっと個人の中に内在する多様性に目を向けてはどうかと美学者の伊藤亜紗氏は指摘しています。

そこからこの方に興味を持ち、この方の著書『記憶する体』伊藤亜紗 著という書籍を求めてみました。

この本は体に刻まれた記憶をテーマに、二十代手前で全盲になった女性、交通事故によって左足膝下の切断を余儀なくされた男性、先天的に左肘の先がない男性などに取材を起こない、その方々が感じる世界を紹介しているのですが、この本を読んで「幻肢」というものを初めて知りました。

この幻肢とは英語で「 phantom limb」、つまり幽霊の様な手足と表現されるのですが、元々手足があった方が、その手足を切断したり麻痺を起こして感じないはずの手足をあたかも存在しているかの様に感じる現象です。なお、先天的に手足がない方にはこの現象は起こりません。

この幻肢が問題になるのは、 「ローラーで押しつぶされたような」「骨を折られるような」といった言葉で表現される痛みが伴うからです。基本的に幻肢がなくなる事は、幻肢に伴う痛みが無くなる事なのでいいことなのですが、骨肉腫(骨の癌)で肩を含む右手を全て切断した倉澤奈津子さんという女性が義手を作ることに少し躊躇いを見せる姿がこの本では紹介されています。

なぜ、躊躇うのでしょうか。それは、義手をつける事によって右手の記憶、幻肢が消えてしまうからです。物理的には存在しない右手ですが、その人にとって幻肢という形で存在し、人によっては幻肢を動かす事も出来るのです。

倉澤奈津子さんは義手によって幻肢がなくなる(右手の記憶が失われる)のを「寂しい」と仰っています。

この話を聞いて頭に思い浮かんだのは、死者の存在です。姿・形としては、私たちの目の前から消えてしまったかも知れませんが、故人を偲びながら生活を営む者のうえには死者は存在していると言えるのでしょう。また、先立たれた直後、遺された者の心の痛みと比例するかの様にその存在が思われる所も共通する所かも知れません。

ただ、心の痛みが和らぐとともに死者の存在を感じなくなるわけではありません。心の痛みの変わりに私たちが先立っていったものに対して感謝の念を忘れる事がないのであれば、死者は存在し続け、私たちを育んでくださるのでしょう。

幻肢とは、手や足など体の一部を切断した人や麻痺のある人が、切断したり麻痺して感じないはずの手や足を、あたかも存在するかのように感じる現象です。英語では、phantom limb、つまり幽霊のような四肢。私の物理的な体に、もうひとつの体がとりついている状態です。まさに体の記憶にかかわる現象です。(中略)

幻肢については、これまで医学の分野を中心に、そのメカニズムや治療法をまぐって研究が進められてきました。幻肢が特に問題になるのは、それがしばしば痛み、すなわち「幻肢痛」を伴うからです。(中略)

一般にその痛みは、「ローラーで押しつぶされたような」「骨を折られるような」といった言葉で表現されるような壮絶なもので、当事者たちを苦しめてきました。

『記憶する体』伊藤亜紗 著 81-82 頁

これまでの研究で、幻肢痛が緩和されるためには、義肢、鏡像、イメージなど「これは自分の体の一部だ」と思えるような対象を獲得することが有効であることが知られています。幻肢痛は、「動くだろう」という予測に対して、「実際に動きました」という結果報告が返って来ないことが原因で生じると考えられています。つまり、この不一致を埋めれば幻肢痛は緩和される。だとすれば実際には自分の手が動いてたのではないとしても、別の何かによって「動きましたよ」という(誤った)情報を脳に送ってやることが有効です。

『記憶する体』伊藤亜紗 著 160 頁

私の中で右手はある

倉澤奈津子さんは、二〇一一年に骨肉腫で肩を含む右腕すべて切除しました。骨肉腫とは骨にできる癌。一〇代からに二〇代の若年層がかかることの多い病気ですが、倉澤さんは四〇代半ばで罹患しました。

病気になって腕を切除、余命五年と宣告されます。その目標をすぎて七年ほどが経ち、「ここ一年くらいは基本的に義手をつけずに肩パッドのみで生活してきました。七年経ったということは、子供でいえば小学校にあがるくらいの年が経ったということです。「たとえば人前でご飯を食べるときに、以前は手を添えられなくて食べにくかったのですが、七年経つと習得して、小学校一年生というか、『わたし、上手に食べられてるな』と思えるようになってきました。もともと右利きだったのですが、今は左で食べられています」。

こうして倉澤さんは、左手のみで生活するという一つのステップをクリアしました。私がインタビューをしたのは、その段階から、次のステップに移ろうとしているタイミングでした。

次のステップとは、義手をつくること。

義手を作るとは、言うまでもなく、代わりとなる右手を獲得することを意味します。右手がつくことで、たとえば左に傾きがちだった体の中心線が、正しい位置に戻るかもしれない。洋服を着るにしても、着こなしがしやすくなるかもしれない。様々なメリットが見込まれます。

けれどもそれは同時に、失うことでもあるかもしれない、と倉澤さんは言います。

どういうことか。今の仁の体について、倉澤さんはこう断言します。「見えないけれど、私の中では右手はある」。見えないけれど存在する手。そう、幻肢です。

詳細はのちほど述べますが、義手をつけることは、幻肢に大きな影響を与える可能性があります。幻肢が小さくなるかもしれない。あるいはなくなるかもしれない。

それは、基本的にはよいことです。なぜなら幻肢は、幻肢痛とよばれる慢性的な強い痛みを伴うからです。幻肢がなくなれば、その痛みから解放されることを意味します。

倉澤さんも、もちろんその効果を狙って義手作りを計画しています。ところが、一方で、割り切れない気持ちもある。倉澤さんは言います。「手の記憶をなくすようで寂しい」。

私の中では右手はある。幻肢とは、いわば、存在していた腕の記憶が形をとったものです。その証拠に、先天的に欠損している人は、基本的に幻肢を持ちません。

だからこそ、義手を使うことによって幻肢が失われるとしたら、それは「腕を忘れる」ことを意味します。確かに、幻肢痛の痛みが軽減されるという意味では喜ばしいことかもしれない。でもそれは、幻肢痛があるという痛みが、腕がないという悲しみに変わることかもしれない。そうだとしたら、それは「寂しい」と倉澤さんは言います。

『記憶する体』伊藤亜紗 著 140-141 頁

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